第一章 ブンとは何者か 行っちゃいけない 戻っておくれ 行かねばならない 放しておくれ つもる別れは 傘の上 名残り棄つるは 傘の下  イヨーッ! ブンとフン!  秋もおわりのある寒い夜のことである。  岡の上の畑のまん中にたっている一軒家で、小説家のフン先生は、冷飯に大根のつめたいみそ汁をぶっかけて、その日七度目にあたる食事を胃の中へ流し込んでいた。 「ぶるぶるぶる。べつに大きな望みはないけれども、せめてこんな寒い夜には、熱いインスタントラーメンでもたべたいものだ。おやおや、もうお釜の中にはごはんがないな。明日はまた一週間分のごはんをたかなくてはならんな」  フン先生はでこぼこの大釜で一週間分のごはんを一度にたき、ふたのない古なべでバケツひとつ分ぐらいのみそ汁を煮ることにしている。  これは、フン先生がものぐさのめんどうくさがり屋であるせいもあるが、じつは一週間分の食事をまとめてつくってしまった方が、そのつど、炊事をするよりも燃料が安くあがるので先生にとって大きな魅力だったのである。  これでわかるように、フン先生は流行作家ではない。これまで、いろんな小説をいろんな出版社から出版したが、どういうわけか、ほとんど、といっていいぐらい売れないのであった。おまけに、先生の小説を出版した本屋さんはきまったようにつぶれてしまう。これまで、いちばん売れた本でも、ただの五冊だというから、これじゃ本屋さんだってたまったものではない。つぶれるのはあたりまえだ。  みそ汁の実はとなりの畑から、真夜中に失敬してくる。トマトがなっていればトマト汁、ナスの季節にはナス汁、そしていまは大根の季節なのでみそ汁の実は大根なのである。  となりの畑の持主であるお百姓さんは、フン先生が畑から、トマトやナスやカボチャや大根をちょろまかしていくことはうすうす察していたが、お百姓さんは小説家というものを尊敬していたから何もいわなかった。 「おれたち百姓は畑をよくたがやして、こやしをやって、種子をまいて、あとはお天道様の光と雨にまかせておけばなんとか作物がなるが、小説家の先生はそうはいかん。一字一句、ペンで書かなくては小説はできない。なにしろたいへんな仕事らしい」  お百姓さんは畑仕事のあい間にフン先生の仕事ぶりを見たことがあった。それは暑い夏の午後だったが、フン先生はクーラーも扇風機も買えないので、玄関のたたきに井戸の水を流して池のようにし、そこへ机を持ちだし、パンツ一枚で、水の中に足をつけながら、宙をじっとみつめ、  ぴっ! ぴっ! ぴっ!  と鼻毛を抜いては、その鼻毛を、机のはしにさかさに立てて植えつける作業に熱中していた。  じつをいうと、フン先生はそのとき、 「ああ、アイスクリームがたべたいな。氷水でもいい。シャーベットもなかなかけっこうよ。冷やしたスイカもオツなもんだ。うむ、今夜あたり、となりの畑からスイカをひとついただいてこようかしらん」  などと、お百姓さんが聞いたら顔いろをかえそうなことを考えていたのだが、お百姓さんはそんなこととは露知らず、 「フン先生のあのきびしい顔つきはどうだ。きっと、人生とは何かというような大問題について考えてらっしゃるにちがいない。お仕事の邪魔になってはいかん。きょうは早じまいにしよう」  まだ、はやいのに家へ帰ってしまった。  さて、冷飯をたべおわると、フン先生は原稿用紙の書き損じを机の上にひろげ、灰皿のなかみをその上にぶちまけ、 「まだすえる煙草はないものか」  ぶつぶつつぶやきながら吸がら探しをはじめたが、そのとき、自動車のヘッドライトのあかりが、破れた窓ガラスのすき間からちらりと見えた。そして、おどろいたことに自動車はフン先生の家の前にとまったのである。 「はてな」  フン先生は吸がらに火をつけながら考えた。 「わしには、こんな夜ふけにたずねてくるような親しい友だちはおらんぞ。借金とりはだいぶいるが、連中はこんな夜ふけにたずねてくるようなことはせんし、だいいち、わしをさかさにしてふっても、一円だって出ないことをしっているから、このごろは催促にもやってこない。考えられるのは泥棒だが、このあいだ押し入った泥的なんぞ、うちになにひとつ目ぼしいものがないので、呆れて帰ってしまったぐらいだ。帰りがけにわしに同情したのか、やきいもを一個おいていった。こんども泥棒だったらしめたものだ。ひとつ、おどかして米代ぐらいせしめてやろう」  これではどっちが泥棒だかわからない。しかし、はいってきたのは泥棒ではなかった。 「やあ、フン先生、ごぶさたしました。アサヒ書店ですよ」  フン先生は、あいてが泥棒ではないのでがっかりした。 「なんだ、あんたか。あんたじゃハラのタシにはならん。だが煙草ぐらいは持っとるじゃろう。一本すわせてくれ」 「そうおっしゃるだろうと思って、煙草を二十箱ほど買ってきましたよ」  アサヒ書店のオヤジは、左手に抱きかかえた茶いろの紙袋の中から、まず煙草をいくつもつかみだしてフン先生の前にならべた。 「それから、先生の大好物のインスタントラーメンが五十袋。シャケカン、カニカンが各三個ずつ。番茶が一袋。ゴマせんべいが一袋……」  夢にまで見た大好物の数々が机の上に並べられていくのを、フン先生はうっとり眺めていたが、急に疑い深そうな目つきになった。 「アサヒ書店の社長さん、これはどういうつもりだ。わしをからかってるのかね。いやきっとそうにちがいない。わしにさんざん見せておいてから、またしまってしまうんだろう?」 「なにおっしゃいますか、先生。これは、ほんの手土産ですよ。さァ、五十万円の小切手を持ってまいりました。受けとりにサインをおねがいしますよ」   アサヒ書店のオヤジがポケットから出したのは、たしかに小切手だった。「5」の横に「0」が五つも並んでいる。 「じつは、フン先生、この夏、先生に書いていただいた小説『ブン』が売れているんですよ。一か月前に一万部刷ったんですが、もう売り切れてしまいましてね。こんどまた一万部刷ることになったんでして。これはそのお金です。どうぞお納めください」  フン先生は地震のときの肉屋の店先のコンニャクのように震えだした。  算数の苦手な諸君が、算数の試験でなにひとつ満足に問題が解けもせず、○点覚悟で出した答案が百点で返ってきて、こわい先生に頭をなでられ、家ではお父さんお母さんにほめられたら、だれだってまごつくはずである。  また九回二死満塁でピンチヒッターに立った万年補欠選手が、盲滅法バットを振りまわし、手応えがないので、こりゃまた三振かとすごすごベンチにもどろうとしたら、監督がにこにこ三塁のコーチャーズボックスから「やった! 逆転満塁サヨナラホーマーだ。おーい、ベースをまわってこい!」と叫んでいるのに気づいたら、これはとまどうだろう。  フン先生もとまどった。ばかにされていると思った。そして怒った。フン先生には、お金も財産も奥さんも子どももなかったが、それを埋めてありあまるほどの自尊心があった。自尊心のかたまりといってよかった。もうひとついうなら、自尊心が無精ひげ生やして、腹をすかせているようなものだった。 「わしをあまくみてなめちゃいかん! わしの本がそんなに売れてたまるか。そんなはずはない。なにかの間違いだ。だれかの陰謀だ。悪だくみだ。貴様、悪魔ならとっとと消えうせろ。狸ならとっつかまえて、狸シチューにしてくってしまうぞ。そして夢ならさめよ!」  しかし、アサヒ書店のおやじはべつに悪魔でも狸でもなかった。フン先生を椅子にすわらせ、まだぶるぶる震えている右手に万年筆を持たせ、 「フン先生、わたしはもう帰らなくちゃなりません。ひとつサインをおねがいします」  五分後、アサヒ書店のおやじが車にとびのって帰ってしまうと、フン先生は、古なべをガス台にかけ、湯をわかしはじめた。 「とにかく、インスタントラーメンをくっちまおう。本が売れたのはやっぱりまちがいでした。さっきのラーメン返してください、といわれても、くってしまえばこっちのものだからな。しかし、もしほんとうにあの『ブン』という小説が売れているとすると、それはなぜなのか。そんなにおもしろいものを書いたおぼえはないが……。よろしい。ひとつ読んでみよう」  なさけのない小説家もあったもので、フン先生は押入れのボロトランクの中から小説『ブン』の生原稿をひっぱりだし、机の上にひろげると、まず、表紙をながめた。  原稿のまん中に下手くそな字でばかでかく『ブン』と書きなぐってある。ページをめくると、長ったらしい副題。  フン先生はわれながら呆れてしまった。 「金魚の糞のようにただただ長いだけの副題ではないか。しかし、ひょっとしたらこのばか長い副題のおかげで売れたのかもしれぬぞ。なにしろ妙なことが流行する世の中だからな」  フン先生はもう一枚原稿をめくった。いよいよ本文である。それはこんな書きだしで始まっていた。 (こりゃなかなかの名文じゃわい。わしはやっぱり小説家、なかなかうまいところがあるぞ)  フン先生は煮立ってきたお湯の中にインスタントラーメンをほうりこみながら、うきうきして、鼻唄をうたいはじめた。 ああ ブン おお ブン ブン どこにでもいる ブン ブン だれにでもなる ブン ふしぎな ブン ゆかいな ブン すてきな かわいい ブンブンブン……  古なべが、ぷわーっとこまかい泡を吹きだした。フン先生は、ラーメンのだしを丼にあけ、お湯でうすめ、煮えたラーメンの水気を切って丼の中にあけた。 「なにはともあれ、けっこう、けっこう。こうやって寒い夜に、熱いラーメンがいただけるのじゃからな。いただきます」  箸をとろうとして、フン先生は思わずぎくりとした。ラーメンから立ちのぼる湯気の向うにだれかいるような気がしたからだった。 「あっ、貴様、やっぱりアサヒ書店の社長だな。いままでのことはぜんぶ冗談、お金とわしの大好物をみんな返せというんだろう。ふん、狸オヤジめ。どうもはなしがうますぎると思ったわい。うまいはなしに気をつけろというが、いかさま、ほんとうであった。だがな、狸オヤジ、いっておくがこのラーメンだけは、わがはい、死すとも貴様には返さんぞ」  いうよりもはやく、フン先生は口をアゴが外れるばかりに大きくひらき、その中にラーメンをぶちあけた。これはあとのはなしだが、フン先生は口の中はもとより、ノドから食道にかけてかなりの火傷を負い、数日間は、ものをのみこむたびに死ぬような苦しみを味わわねばならなかった。もっともそのために、食事の量ならびに度数はいささかもへりはしなかったけれども……。 「フン先生、はじめまして」  アサヒ書店の社長はガラスを爪でひっかくような声の持主だが、テーブルの向うの人影はわりと低い、いい声でいった。 「猫なで声でだまされるようなわがはいと思うか。じつにひとをなめとる。こうなったら意地だ。ゴマせんべいも返してやるものか」  フン先生はふたたび口を大きくあけ、ゴマせんべいを袋ごと、口に押し込もうとした。 「フン先生、血迷っちゃあいけませんや。わたしですよ、わたし」  テーブルの向うの人影は椅子を引いて、ゆっくりとその上に腰をおろすと、右手を宙に浮かし、空気をかきまぜでもするようにひらひらと妙な手つきをした。  すると、驚いたことに、そいつはもう右手に火のついた煙草を二本持っていたのである。 「先生、どうですか、いっぷくなさっちゃ」  フン先生は、たとえ相手が親の仇でも、せっかくすすめてくれるのをことわるのは失礼である、という考えの持主であったから、素直に煙草をもらって、ひといき深く煙をすいこんだ。 「ふーっ。狸オヤジめ、どこで手品など仕込んできたのだ」 「フン先生、わたしはアサヒ書店の社長なんかじゃありませんぜ。ブンという男……ま、いまんところは男ですよ」  アサヒ書店の社長はビア樽の上に南瓜をのっけたような体つきをしていたが、ブンと名乗ったそいつは人間の身体の上に人間の頭をのせ、間を首でつないだような体つきをしている。 「ふーん。どうやらこれはひとちがいだったらしい。しかし、あんたはどうやら非常識かつ馬鹿な人間らしいな」 「ほう、そうですかね」  ブンと名乗ったそいつはべつに怒りもせず、ふたたび、右手を宙に浮かしてひらひらと振った。するとまたまた驚いたことに、そいつは右手にブランデーグラスを持っていた。それから、つぎにブランデーのびん。 「まあ、先生、いっぱい、いきましょう」  注いでくれるのをフン先生はまた素直に受けとって、ひと口、ごくり。 「ほう、こりゃすばらしい酒だ。あんたの手品の腕前のすばらしさにめんじて、あんたが許可もなしにわがはいの家にはいりこんだ非常識さと、いまのところは男だといった馬鹿なことばは忘れてあげよう」  ブンと名乗ったそいつはにやりと笑った。それから立ち上がって、ぶるぶる、妙な腰つきをした。するともうそこにはひとりの若い女が立っていたのである。しかもはだかで——。 (このへんのくだりを、読者諸君のお母さん方に読まれると困る。ここだけを読んで、この本全体を誤解される危険があるからである。「ならば書かなきゃいいじゃないか」と諸君はいうかもしれないが、そうはいかないのだ。このことはこの本全体にとってたいへん重要な事実なのであるから。そこで、賢明な読者諸君よ。このページの端の「のりしろ」と印刷してある部分にのりをつけ、ページをはりつけてほしい) 「いまんところは男ですよ、と申しあげたわけがおわかりになりまして?」  そいつは、かわいい声でいった。  フン先生は、かりにも小説家であるから、若い女がはだかで立っていようが、寝そべっていようが動じない。そんな場面はこれまで何十回と小説に書いてきたのだ。しかし、男があッという間に、目の前で女になったのには驚いた。 「すごい! 手品もそこまでいけば芸術じゃ。きみいや、あなた……(ここでそいつは、とつぜん、男になった)いや、きみ…(そいつ、ふたたび女になる)つまり、あなたは……(そいつ、男になる)…うーん、きみ…(そいつ、女になる)あんた……(そいつ、男になる)男か女か、どっちかにきめてくれ! はなしにくくてかなわん!」  そこでそいつは女の姿のまま椅子にかけた。 「……あんたさえその気なら、その手品……というか、化身の術で一財産つくれるぞ。たいした見世物になる」 「いいえ、そんなことをしなくても、わたしには、ちゃーんと職業があるんです。それで、毎日の暮しは、りっぱに立つわ」 「ほう。で、きみの仕事は?」  そいつはまたニコッと笑って、右手を宙でひらひらさせた。 「ハクション! 急に夜風が身にしみてきたが、どこか、窓でもあいているのかな?」  窓はべつにあいてはいなかった。ただ、いつの間にか、フン先生はまるはだかになってしまっていたのである。 (このページにも「のりしろ」がある。ぜひのりではってほしい。若い女とフン先生が、ともにまるはだかで、テーブルをはさんでさし向いにすわっているところをお母さん方に読まれてはまずい。お母さん方が想像なさるようなことはまったく起こらないのであるが、ここだけを読まれると、前にも念を押したように、この本の持つ高い教育的な値打を誤解されるおそれがあるのである。おとな、とくにお母さん方は、非常に物事に感じやすい。子どもには彼女たちを保護してあげる義務があるのである。なかには、この調子だと、各ページごとにのりをはって袋とじにしなくちゃならないのではないかと、心配している人もいるかもしれないが、その心配はもうない。のりをはるのはこのページでおしまい)  あんまり驚いたのでフン先生、声も出ない。 「おわかりかしら、フン先生? わたしの職業は泥棒なの。フン先生は、わかりがおそいようですから申し上げときますけど、おれさまはよ、四次元の大泥棒ブンですぜ」  途中で口調がいきなり乱暴になったのは、そいつが女から男に姿をかえたためである。フン先生はあいかわらず驚きっぱなしであるから、いぜんとして一語も発することができず、まるはだかで口をパクパクさせているだけだ……と思うとこれが大間違い。自分の書いた小説の中の主人公ブンが、じっさいに目の前にいるらしいと気がついたから、事は重大、責任者としては、なにかしかるべきことをいわなくてはならない。それでいった。 「た、たしかに、おまえはわしの小説『ブン』のなかのブンか?」 「ええ、そうですとも。いやだねえ、先生は生みの親でしょ。一目みて、それと察してくださいな」 「察しろといわれても、そりゃ無理な注文だよ。小説家が、途方もないウソ八百を無責任に並べたてることができるというのも、原稿用紙に書いた人物は、決してじっさいにこの世に迷いだしてこないという保証があるからじゃよ。もしも、すべての小説の中の主人公たちが、おまえのようにひょこひょこ勝手に外にとびだしたとしてごらんよ、世界中は、小説の主人公たちでいっぱいになってしまうではないか。向う見ずで一本気な『坊っちゃん』、風車を怪物と取りちがえるドン・キホーテ、ケチン坊のアルパゴン、でたらめばっかりいってるホラふき男爵、なさけようしゃない守銭奴のシャイロック、ひとをあざむき殺人までするマクベス。それから、これはマンガじゃが、白土三平の『赤目』にでてくる、百姓のことをすこしも考えずただもうやたらに年貢を取り立て、命令にさからう者を殺してしまう殿様……、そういう妙ちきりんでへんてこりんな人間どもで埋まってしまうぞ」 「おことばを返すようですがね、先生。いま先生のおっしゃったような妙ちきりんでへんてこりんな人間どもがいるのは、小説の中だけでしょうかねえ。この世でもじっさいにお目にかかれそうですぜ」  自分の作りだした小説の中の人物に面と向かって口答えされたのは、フン先生としてははじめてのことである。先生はすこし腹が立ってきた。 「とにかく、いったいぜんたい、貴様はどうして小説の中から抜けだしてきたんだ? それがわしにはまったくわからん。じつにふとどき千万……」  ブンと名乗るそいつがさえぎった。 「簡単なことじゃありませんかね。フン先生、あなたはこのおれを、なんでもできないことのない、不可能なことはなにひとつない四次元の人間として作りだしたんでしょ」 「ま、そうだ……」 「なら、小説の中から飛び出しても、なんの不思議はないじゃないですか」 「そりゃたしかに筋道は通っとる。まったく正しい。非の打ちどころがない。たいしたものだ。りっぱなものだ。じつになんというか……きみなら、東大にはいれるぞ」  フン先生はさんざんおだてておいて、やさしくつけ加えた。 「ところでどうだ、夜もふけた。ぼつぼつこの生原稿の中に帰った方がよくはないかい」 「いやいや、わたしはもうちょっと世の中に出ていたいんでさ」 「いかん!」  まるはだかのまま、フン先生はブンと名乗ったそいつにとびかかった。押えこむつもりだったのである。しかし、そいつはもうそこにいなかった。フン先生が、あっけにとられてきょろきょろあたりをみまわしていると、上の方から声がした。 「ぼく、自分の力を、世の中に出て、じっさいに試してみたいんです」  ブンと名乗るそいつは、こんどは小学生の男の子に姿を変え、天井に横になって寝っころがり、くそまじめな顔をしていた。 「たのむ。それだけはよしてくれ。四次元の人間のおまえさんは、この三次元の世界ではすべてが可能なのだ。神にもなれるし悪魔にもなれる」 「ヒッヒッヒ、あたしゃ泥的でござんすからね。どっちかてえと悪魔のやりそうなことをやってみたいね」  こんどはトイレから声がした。見るとブンと名乗るそいつは、さかだちしながら、おしっこをしている。 「しかし、世の中がめちゃくちゃになってしまうぞ。おまえは低いところから高いところへ水を流すことだってできるのだ。カボチャのつるにナスをならせることもできるし——」 「なら、カボチャのツルに——」  いつの間にかテーブルの上にブタがいて、そのブタがいくぶん、鼻にかかった声でいった。 「ブタをならせることもできるねえ」 「いかん! おまえなら、すべてのビルからエレベーターを盗むことができるし——」 「いっそ、エレベーターだけを残してビルを盗んじまうかね」  ブタはいつの間にかタワシになっていた。 「日本だって盗めるのだ」  タワシは孫の手になった。 「アジアをそっくり盗む方がいいね」 「アジアだって月だって、おまえは背中をかくよりたやすく盗むことができるのだ。しかし、そんなことをされたらこのわしはいったい——」  孫の手はゴキブリになった。 「月より太陽の方がゴキゲンだね。太陽をいただくか」  ゴキブリはちっぽけなゴミになったが、声だけはあいかわらず大きい。 「太陽よりは銀河系の方が手ごたえがあるな」  ゴミはみるみる大きくなって、もとのブンと名乗る男にもどった。 「よし、銀河系にきめよう」 「たのむ……!」  いまやフン先生は必死である。ブンと名乗るそいつの前に平伏した。 「行かないでくれ。生原稿の中にもどれとはいわん。せめて、この家の中でひっそりとくらすぐらいにしてほしい。このとおりだ」 「あたしに手を合わせたってむだですよ。あたしゃ出て行くといったら出て行くんですから」  ブンと名乗るそいつは立ち上がった。 「ときにフン先生、いつまでもはだかじゃ寒いでしょう? 飛切上等のあったかい服をプレゼントしますよ。毛皮かなんかをふんだんに使ったやつをね。じゃあ、先生……」 「ブン! 待ってくれ……」  フン先生が叫んだとき、もうあのブンと名乗った男は煙のように消え失せ、秋の夜ふけのしずけさのなかに、フン先生がひとりぽつんと、それがあの男のプレゼントなのだろうか、新しいリッパな着物を身につけて立っていた。とてもあったかい着物だった。  たしかにあったかいはずだった。フン先生は虎の皮のパンツをはき、熊の皮のドテラをはおっていた。フン先生は力なくつぶやいた。 「ブンのやつめ。生みの親のこのわしを、山賊かなんかとまちがえておる」 第二章 次から次へと奇ッ怪千万 あっちにブン こっちにブン そっちにブン どっかにブン 声はすれども 姿は見えぬ ほんにおまえは 屁にはなれっこになっていた。それどころか、かえって、 「毛皮の着物なんてカッコイーッ!」  と思いながら、一万円を五十枚、熊の毛皮の男にわたした。 「毎度ありがとうございます。あのう、お客さま、その皮服、ずいぶん、高かったんでしょう?」 「いやなに、そのう、ただみたいなものじゃ。というのはつまり、これはプレゼントなのでして、いや、どうも。ごめん」  あいまいにつぶやきながら、熊の毛皮の男は、銀行から出ていってしまった。この熊の毛皮の男は、いうまでもなく、フン先生なのだが、銀行からとびだしたフン先生が、つぎにはいっていったのは、町の図書館である。  フン先生は図書館備付の新聞を机の上にひろげ、一ページずつ、すみからすみまで、ていねいに目を通した。とくに、強盗事件の記事がのっている、いわゆる三面記事には、最大の注意をはらった。 「ブンは泥棒である。ブンがすでに活動を開始しているとすると、なぞの盗難事件がひんぴんと起こっているはずだ。つまりじゃ、新聞の盗難記事が、ブンの消息をしるたったひとつの手がかりなのだわ」  しかし、新聞にのっている盗難事件はどれもこれもつまらぬものばかりで、目をさました家の人にさわがれ、あわてふためいて塀からおっこってとっつかまってしまった間抜けな泥棒とか、みつかって包丁さか手にいなおったところまではよろしいが、その家の主婦に肩口をかみつかれ泣いてつかまったカッコ悪い泥棒とか、まんまと金を盗みだしたものの帰るときになって道に迷い、交番で道をきき、怪しまれて捕ったドジな泥棒の記事しかのっていなかった。この泥棒がなぜ、交番のおまわりに怪しまれたかというと、ついうっかり、頬っかぶりをしてカオをかくしたまま、道をきいたからであった。 「やれやれ」  フン先生は、ほっと肩の力を抜いた。 「ブンのやつ、どうやらおとなしくしているらしいぞ。もしかしたら、口だけだったのかもしれぬ。ただのおどかしだったのかもしれぬ。いやいや……」  フン先生は、新聞立てに新聞つづりをもどし、すぐそばの灰皿のなかの煙草のすいがらを一本口にくわえ、火をつけながら、 「ひょっとしたら、ブンがわがはいの生原稿の中から抜けだし、わがはいとしゃべったこと、あれはぜんぶ、わがはいの想像だったのかもしれぬ」  煙をはきだしながら、フン先生は、考えを進めた。 「ひさしぶりにインスタントラーメンをたべることができるといううれしさに、アタマが一時的におかしくなったのだ」  だが、フン先生は、自分が熊の皮のドテラを着ていることに思いあたって、すこしばかり、ぞっとした。 「この熊の皮のドテラをどう説明したらよかろう? こいつはブンのプレゼントだ。となるとやはりブンは、じっさいにいることになる」  フン先生はいらいらして煙草を乱暴にもみ消した。 「やーめた。アタマが痛くなるだけだ。とにかく、ブンはまだなんのわるさもやってはおらぬ。これからだってやらないかもしれない。それを信じよう」  そのとき貸出し係のインテリおばさんがフン先生に向かって、にっこり笑ってあいさつした。 「はーん、珍しいこともあるものだ。いつも、つんと澄してお高くとまって、わがはいなどには目もくれぬインテリおばちゃんが、今日はどういうわけかわがはいに笑いかけとる……」  フン先生はいつも自分の小説が出版されると、地元のこの図書館に一部、寄贈することにしているが、そのたびに、このインテリおばさんは迷惑そうな顔で、憎らしくも、こういうのが常だった。 「フンさんの小説なんて読む方がいないんですよ。あたくしもこういう仕事ざんすし、小説についてはちょっとばかりうるさい玄人でござんすから(というのは、このインテリおばさんは大学時代、ひとつだけ小説をモノにしたことがあるからであった)たいていの小説は読むんざんすが、あなたの小説だけはどうも……どこがどうってことはいえませんけど、小説としての魅力というものが、ちーともございませんものね」  そのインテリおばさんが、笑いかけただけでなく、図書館を出ようとするフン先生に向かって、こういったのである。 「フン先生、いつも先生のご本を図書館に寄付してくださってありがとうぞんじます。このあいだいただいた『ブン』という小説、あれはとてもけっこうでござんした。あたくし、徹夜で読ましていただきましてよ。あたくしだけではございません。図書館利用者の間でもひっぱりだこ。いつも貸出し中なんでございます。もう一冊、買い入れようと思いましたら、本屋さんでも売切れなんですって。先生、『ブン』は傑作でござんすわ」  フン先生はうれしかった。長い間、小説家をしているが、自分の本を読んでくれたという人間にあったのは生まれて始めてだった。  それで、天下をとったような気分で家に帰ったのだが、じつは、フン先生は五十万円のなかからなにがしかのお金をさいて、テレビ、ラジオを買って帰るべきであった。すくなくとも新聞販売店に立ち寄って、あくる日から、新聞を届けてくれるようにたのんでおくべきだった。そうすれば、その日の午後から世界各地につづけざまに奇ッ怪千万な事件が起こったことをすぐ知ることができたはずだし、事件の性格から見て、犯人はブン以外にないことに気づいて、さっそく、なにかしかるべき手を打てたはずである。  さて、この日、世界各地に発生した奇怪な、しかし、どこかユーモラスで滑稽な事件をのこらず書きならべていると、とてもこの本一冊には、おさまりきれないと思われる。  なにしろ、その日一日だけで二万八千件以上の怪事件が起こっているのだ。  ここに記録するのは、その中のごく一部である。 「御搭乗のみなさま、まもなくケネディ空港に着陸いたします。どなたさまも安全ベルトをおしめくださいませ。なお、ただいまニューヨーク港上空を旋回中でございますが、左下に見えてまいりましたのがニューヨーク港名物の自由の女神像でございます。この自由の女神像は一八八六年、フランス国民がアメリカ合衆国の独立を記念し、友好のしるしとしておくったもので……あッ」  ぷつりと、スチュワーデスの説明がとぎれたので、東京羽田国際空港発ケネディ空港行きのジェット旅客機の乗客一同は不吉な予感におののいた。  ——着陸間ぎわになって機長が食あたりでぶったおれたのかしらん?  ——いや、車輪が出なくなったのだ。  ——ひょっとするとエンジンの故障かもしれないぞ。  そこへスチュワーデスのへんに間のびした声が流れた。 「自由の女神がかかげているのは、いったいなにかしら?」  旅客機の左がわの座席の乗客が、いっせいに窓から自由の女神を眺めおろし、つっついた蜂の巣のようにさわぎだした。  自由の女神は、炬火のかわりに、巨大なソフトクリームをかかげていたのである。  奈良の東大寺の本尊、びるしゃなぶつの坐像は、俗に「奈良の大仏さま」といわれ、日本の最大の金銅像で、高さが十六メートルもある。 「ほんとにでっかいな」  東北から修学旅行でやってきた高校生の一団が大仏の前に並んで、記念写真をとりはじめた。カメラを構えているのは、写真屋の息子でウデはおやじゆずり、たいへん写真がうまい。 「いいか。動くんじゃねえ。ほんじゃ、シャッターを押すからな……」  だが、写真屋の息子はいつまでたっても、シャッターを押さなかった。ぽけーっとしてファインダーをのぞいているだけだった。並んでいる連中のほうがしびれをきらして、 「なにぼやーッとしてるんだべはあ、まンず」  ひとりが写真屋の息子の肩をぽんと叩いた。息子は、オヤジからかりてきた十万円もするカメラをとり落し、つぶやいた。 「シャッターを押そうと思ってファインダーをのぞいたら、大仏さまがいなくなっつまったのス。どうなってんの、これ」  たちまち奈良の都は上を下への大さわぎになったが、だれひとり、どうなってんのかわかったものは、いなかった。  同じころ。  鎌倉市長谷に鎮座する金銅の阿弥陀如来像、俗にいう「鎌倉の大仏さま」に、秋の雨が煙るように降っていた。 「ここんところ雨ばっかりだねえ」  茶店のおばあさんは、自分の茶わんにお茶をついだ。 「お客がすくなくてこまったものだよ。大仏さま、なんとかしておくれよ」  おばあさんは一口茶をすすってひょいと大仏さまを見たが、驚いて、入れ歯を茶わんの中に、はきだしてしまった。 「ありゃ、大仏さまがふたつにふえてる! おじいさん、たいへんだよ。大仏さまがふたりいらっしゃるよ」  真正面から向かいあったふたつの大仏さまは、まるでにらめっこをしているように見えた。  一時間後。  大仏さまの前は、テレビ局の中継車や、新聞社の旗をたてた車でごったがえしていた。おばあさんの店のお茶はとぶように売れ、おかげでたったの半日で一月分の売上げがあった。その夜、おばあさんは、ふたつの大仏さまに手を合わせてつぶやいた。 「このぶんだと、三日で家が建ちそうでございますよ」  そばでテレビが声をはりあげていた。 「鎌倉市にあらわれたもうひとつの大仏は、奈良の大仏と判明しました……」  ベルリンは快晴だった。  ベルリン動物園のシマウマの檻の前で、今年、大学を卒業したばかりの小学校の先生が、一年坊主たちに説明していた。 「みなさん、ベルリン動物園は、わたしたちベルリン市民のほこりです。というのは、よろしいですか、この動物園には一五○○以上の種類の動物が住んでいるんですよ。世界のどこの動物園を探したって、一五○○種も動物のいる動物園はありゃしません。さァ、それでは、この檻の中にいる動物はなんていう動物ですか?」  一年坊主たちはがやがやいっているだけで、だれひとり、先生の質問に答えなかった。 「これはあきれた。だれも知らないのですか。シマのあるウマのことをなんていうんでしたかねえ?」  そういいながら、先生はシマウマの檻の中を見てびっくりしてしまった。シマウマにはシマが一本もなかった。まっしろいウマがのんびり草をたべているだけだったのである。  東京の上野動物園のシマウマの檻の前で、幼稚園の生徒が数十名、先生のおはなしをきいていた。 「このシマのあるウマのことをシマウマといいます。さあ、よーく、シマウマを見ましょうね」  先生は生徒といっしょにシマウマを眺め、そして、その場にぶったおれてしまった。ついさっきまで、タテジマだったシマウマ模様が、いつの間にか、タテヨコ十文字の格子ジマになっていたのである。格子ジマのシマウマを見て、ひとりの子どもがさけんだ。 「シマらないシマウマ」  十日ほどあと。  ヨコハマで、日本とドイツの動物学者たちによる緊急学会が開かれた。テーマは、「シマウマのシマについて」というものであったが、学会終了後、学者団を代表して、日本のヨコジマ博士が次のような発表をした。 「上野動物園のシマウマについたヨコジマは、ベルリン動物園のシマウマのタテジマがヨコについたものだと思われる」  イギリスのテームズ川上流の大学町オックスフォードはにぎわっていた。その日は、地元のオックスフォード大学とケンブリッジ大学の対抗ボートレース試合が行なわれる日だったからである。  オックスフォードの郊外に住む歴史学者トートランド卿は、数年前までオックスフォード大学の学長をつとめていた。 「ことしこそ、母校に勝ってもらわねばならぬ」  卿はここ数か月、歴史学のことよりもボートレースの方が気になっていたから、その日は朝はやくからゴール前の桟敷にでんと腰をすえ、魔法びんにつめたスコッチウイスキーを、すこっちずつやりながら、ボートが見えてくるのを待っていた。午後三時半をまわったころ、川の下流からどよめきが上がった。思わず立ち上がってみると、きた! きた!二隻のボートが抜きつ抜かれつ抜きかえしつ、水面をすべってくる。 「がんばれ! オックスフォード! わがはいがついとるぞ!」  卿のこんかぎりの声援が選手たちにとどいたとみえて、ゴール前で、オックスフォードはケンブリッジに一艇身の差をつけた。 「おお、みごと! わが母校の勝利じゃ」  卿は、はしたなくも、うれしさのあまり、桟敷の上に土足でとび上がった。が、そのとき、なんとも奇妙なことが起こったのである。  わーっ!  卿がとび上がったときは満々とたたえてあったテームズ川の水が、卿がとびおわったときには、一滴もなくなり、二隻のボートは泥ンこの川底の上で、にっちもさっちもいかなくなっていたのである。  レースは引分けとなった。  卿はとびおわったひょうしにびっくり、引分けときいてがっくり、ぎっくり腰になってしまった。  このレースの模様は、テレビ実況によって全イギリスに中継されていたから、スコットランドヤードの腕っききの刑事たちが、すぐさま現場に急行して、取調べを開始した。  だが、なにひとつ手がかりはつかめなかった。つかんだのは川底の泥ぐらいなものである。  九州の福岡市もにぎわっていた。大相撲の一行が巡業にやってきていたのである。シスター桑原は孤児院の女の子たちを引率して、土俵近くに陣取っていた。  シスターとはカトリックの修道女のことである。シスター桑原は孤児だった。生まれるとすぐ、福岡市の郊外にあるカトリックの女子孤児院にあずけられ、そこで育った。中学校を卒業すると、ほかの孤児たちは、世の中へ出ていったが、彼女は神さまのいることを信じていたから、そのまま孤児院にのこり、自分と同じようにみよりのないかわいそうな子どもたちの世話をして、神に一生を捧げようと決心した。  どういうわけか、孤児院の女の子たちは相撲が好きだった。一度でいいから、ほんものの力士を見たいとねがっていた。 「……勝手なおねがいでございますが、孤児院の子どもたちにほんものの大相撲を見せてくださるわけにはまいりませんでしょうか。  横綱大鵬力士が思い思いの化粧まわしをしめ、土俵にのぼった。全力士のそろいぶみである。 「大鵬さま」  男の名前を叫ぶのは生まれてはじめてである。シスター桑原はすこし赤くなった。 「大鵬さま 孤児院の女の子たちはみんなよろこんでおりますわ。ありがとう!」  大鵬が最後にのぼって全力士がそろった。  ポン!  全力士が一せいに手を鳴らした。そのとき、おそるべきことが起こったのである。全力士の化粧まわしがぱっと消え失せ、全力士、生まれたときの姿で立っていたのだ。  大鵬はうろたえて高見山のうしろにかくれた。  そして、シスター桑原は気絶した。なにしろ、彼女は男のはだかを見たのは生まれてはじめてだった。  東京の下町にある遠藤パン店は、おいしいパンを売るのではんじょうしていた。とくに、遠藤パン店のアンパンはよく売れた。 「アンパンというのはヘソが大切なんじゃ。うちのアンパンのヘソは世界最大のヘソだ」  ところが、その日、遠藤パン店の店先は、口ぐちに文句をいうお客でごったがえしていた。 「どうして、おたくのアンパンに、きょうはヘソがついていないの?」  遠藤パン店のおやじさんは首をかしげた。 「おかしいな。店に並べたときは、たしかに、アンパンにヘソはあったんだがねえ」  アンパンにヘソがなくなっていたのは、なにも遠藤パン店一軒ではなかった。その日、日本のすべてのアンパンからヘソが、こつぜんとなくなってしまったのである。  植田先生は、東北のある中学校の理科の先生である。その日、植田先生は中学一年生に蛙の解剖法を教えていた。 「蛙は、両生類の動物である。両生類は卵から生まれる。卵から生まれる動物にはヘソがない。したがって、蛙にもヘソがないのである」  ケラケラとだれかが笑った。見るといたずら坊主の金子市郎がニヤニヤしていた。 「金子、なにがおかしいンだ?」 「だって先生がウソこくからおかしいンだよ」  植田先生は市郎をはりたおそうかと思った。しかし、植田先生は立派な教育者だった。ゲンコツでは教育できないことをよく承知していた。だからおだやかにききかえした。 「金子、先生がいつウソをいったかね?」  金子市郎は、自分の解剖台の上に四本の足を虫ピンでとめた蛙のおなかをさしていった。 「だってほれ! 蛙にゃヘソがある」  たしかに蛙のおなかのまん中にはヘソがあった。かなりもり上がったヘソだった。でべそかもしれなかった。おどろいたことに、教室に持ちこまれた蛙のすべてに同じようなでべそがちゃんとついていた。 「ひょっとしたら……」  植田先生はわくわくしながら考えた。 「蛙にはヘソがないという学説はまちがいかもしれない」  そこで、植田先生は、はだしで外にとびだすと、そのへんにいる蛙をいっぴきのこらずとっつかまえた。その数、五百三十五匹。調べてみると、すべての蛙にヘソがある。 「これはすごい発見だ!」  植田先生は、一晩じゅう一秒間もねむらず大論文をモノにした。 『蛙にはヘソがある』  と題するこの論文は、植田先生の収集した蛙と共に、速達書留小包で東京大学の動物学教室に送られた。一月たって、東京大学の動物学教室から葉書がきた。植田先生はその葉書を読むなり、 「信じられない!」  と叫んで、気絶、それ以来ずーっと中学校を休んでいる。葉書には、こう書いてあったのだった。 「……貴殿から送付いただいた蛙のヘソを分析したところ、疑いもなく蛙のヘソなるものはアンパンのヘソと判明した。こころみに当動物学教室の助手一同が蛙のヘソを試食したるところ、たしかにアンパンのヘソと同じ味がしたことを申しそえます」  ここまでに記したのは、どれもこれも、あとあとかなり有名になった事件ばかりである。  けれども、そのほかにも、世間に知られないへんてこりんでみょうちきりんな小事件がゴマンと起こっていた。  大力幸之助といえば、諸君も知っているだろうが、日本を代表する大資本家で、日本で一、二をあらそうケチン坊だった。そのケチさかげんときたらふつうではないのである。たとえば、時計は夜、眠るときはとめてしまう。眠っている間にコチンコチン時計が時を刻むのは、歯車がすりへってしまうから不経済だというのだ。  彼の家にはお手伝いさんが三名ほど住み込んでいたが、お手伝いさんたちは台所にいる間は、書斎にいる大力氏にきこえるようにかならず大きな声で歌をうたっているよう命令されていた。つまり人間に口がひとつしかない以上、歌をうたっている間は、つまみぐいはできないわけで、歌をうたわせるのはつまみぐいの防止法だったのである。  大力氏の洋服にはポケットというものが、いっさいなかった。洋服を買ってくると彼はポケットをぜんぶ糸で縫いとじてしまうのだった。 「ポケットがなければ金を入れるところもなくなる。煙草も持てない。ハンカチもはいらない。したがって、外に金を持って出ることもなくなるし、煙草もすえず、ハンカチもいらない」  どうしても金がいるときは秘書に五十円とか百円借りるのである。もし、秘書が、金をかえしてくださいなどとでもいおうものなら、大力氏は公園のベンチで犬のケンカをながめたりして会社を休む。それでもしつっこく金をかえせなどというと、ありとあらゆるなんくせをつけて秘書をくびにしてしまうのであった。  こんなふうにして死にものぐるいで金をためこんだおかげで、いまや大力氏は、こっちに新聞社をひとつ、そっちに銀行をふたつ、あっちに大工場をみっつ、どっかに別荘をよっつというように、たいした財産を持っていた。  ところで、このケチな大力氏がばかにお金をかけているものがただひとつだけあったが、それはなんとトイレだった。西洋式の腰かけ便器で、ボタンを押すと、美しい音楽が鳴りひびき、水がしゃーっと出ておしりを洗うのである。毎朝、大力氏は便器にゆったりと腰を下ろし、用をたしながらいろんなことを考える。 「この便器はじつに合理的であるわい。トイレット・ペーパーのかわりに水がおしりをきれいにしてくれるのだから、長い目でみれば、紙代がうく。ウッヒッヒ」  その日も、大力氏は布団を出ると、新聞を持ってトイレにこもった。新聞はお手伝いさんたちが共同で購読しているのを、彼は、借りて読むのである。便器は今朝もピカピカ輝いていた。 おお便器よ 便器 わがいとしの便器よ  大力氏は、やさしく便器をなでさすりながら思いつきのでたらめの節でうたった。 すべての西洋便器は 楕円形だよ おお そうだよ だから わしの西洋便器も 楕円形だよ  そして大力氏は、便器のうえに、でんとすわったのだが、どういうわけか、しりもちをついて、ひっくりかえってしまった。大力氏はなぜひっくりかえってしまったか。そのわけはまったくかんたんである。大力氏が便器に腰を下ろそうとしたとたん、便器は煙のごとく消え失せていたのだった。 「おはいはいの俳助」といえば、強盗仲間と警視庁の刑事たちには、よく知られた人物である。なにしろ、銀行破りの専門家で、これまで一度も捕まったことがないという疾風のような怪盗であった。「俳助」という名のいわれは、この怪盗、盗んだあとにきっと俳句や和歌を詠んだ短冊をのこしてくるところからついたあだ名で、 盗めども盗めども わが暮し 楽にならざる じっと手をみる  というのが代表作。  盗ッ人稼業の生活の苦しさがよく出ているが、もっともこれは石川啄木の盗作である。 梅が香に ぬっと刑事のでる 山のちょうど今日、となりの家の柿をくすね、泥棒道にその第一歩をしるしてからはや三十年たつ。流行歌手なら十年もたつと、〝歌手生活十周年記念リサイタル〟なんてのをやらかすが、ひとつ、その向うをはって 〝泥棒生活三十周年記念銀行破り〟をやったらどうだろう」  そこで俳助は、その夜、日本銀行にしのびこみ、大金庫をこじあけ、大蔵省の印刷局からとどいたばかりの出来たてのホヤホヤの一万円札を一万枚ばかり、唐草模様の大風呂敷につつみこみ、どっこいしょと背負って、まんまと、外にのがれ出たのである。ところが、日本銀行を出たとたん、急に、背中の風呂敷の重みが、ふわーっと軽くなったような気がした。そこで俳助、風呂敷をあらためてみると、たしかに背負って出たはずの一万円札が一枚もない。なかはからっぽだった。俳助は一首、歌をよんで気を失ってしまったが、その歌というのはこうである。 たいせつな お札背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩 あゆまず  ちなみに、これも、石川啄木の盗作である。 第三章 ブン現象 だれにもわからぬブン現象 不思議といえば不思議だが ちょいと考え変えてみりゃ わかる気もするブン現象  さて、小説家のフン先生の方は、いたってのんきなものである。フン先生は、自分の作りだした小説「ブン」の中の主人公ブンが、世の中をさわがせていることなどちっとも知らない。まえにも書いたようにテレビもなければラジオもない、新聞だってとっていない。おまけに畑の中の一軒家であるから、うわさばなしの好きな向う三軒両隣りというやつもない。その上、たいへんな外出ぎらいときている。世の中をいま、奇ッ怪な事件がわがものがおに横行していることなど、どこからも知りようがないのである。フン先生の関心事は、いまのところ、次なる小説をいかなる風に書くべきか、ただそれだけだった。 「わがはいの小説は二万部も売れた」  渋茶をすすりながら渋いカオをして、フン先生は考えた。 「わがはいは堕落しつつある。ひじょうにあぶないところにおちこんでいる。わがはいの小説はこれまで、ひとが読もうとしないところにそのよさがあったのだ。それが『ブン』を二万部も読むひとがいるとは、なんというかなしいことであろうか。小説のあらすじや文章のどこかに、ひとにこびたり、ひとの機嫌をとったりするようなところがあったのではあるまいか」  フン先生は、ふと図書館の貸出し係のインテリおばさんの顔を思い浮かべた。 「あのおばさんに『読んでおります』といわれたとき、わがはい、うかつにもよろこんでしまったが、わがはいが、ほんとうの小説家なら、あのとき、あのおばさんを、はりたおすべきではなかっただろうか。『わがはいの小説を読むなど、思い上がるのもいいかげんにしろ!』と、どなりつけてやるべきだった」  フン先生は、いきなり右手で空中をなぐりつけた。てのひらのなかに季節外れの蠅が一匹、もがき苦しんでいた。フン先生には、なんの芸もない。ただ大メシをくらうことと、まわりでうるさくとびまわる蠅を素手でつかみとることが、ずばぬけて上手であった。もっとも四十年間、ゴルフもマージャンもパチンコもやらず、テレビも映画もお芝居も観ず、ただ、机の前にすわって、まわりをとびまわる蠅どもとにらめっこしてくらしていれば、だれだって、蠅ぐらいつかみとれるようになるが……。  フン先生は、そーっとてのひらをのぞきこみ、蠅をつまみあげると、蠅の羽を、プツ!プツ! とむしりとった。羽をとられた蠅はてんでだらしがない。よたよたと、そのへんを歩きまわるだけになってしまう。そういうよたよたの蠅を、フン先生は、筆箱の中にほうりこんでおいて、夜、寝るときに数えるのであった。 「はあ、今日は五十三匹も蠅をつかみとったか。今日はだいぶ仕事をしたわい」  つまり、つかみとった蠅の数が多ければ多いほど、それだけ、机の前をうごかなかったということになるわけだ。フン先生は、きょうの蠅がいつもとちがっているのに気がついた。蠅には、あのでっかい目玉がなかったのである。 「これはこれは」  フン先生は、羽をもいだ蠅を筆箱にほうりこんでつぶやいた。 「蠅にも座頭市がいるとみえる」  ざんねんなことに、その日フン先生は蠅を一匹しかつかまえなかった。もし、その日、世界中の蠅をつかまえたとしたら、フン先生は仰天して、腰を抜かしたにそういない。その日、世界中の蠅にはすべて、目玉がなかったのであるから。 「ようし。このつぎの小説は、ひとがまちがっても買おうとしないような、むずかしい小説にしてやろう」  フン先生は原稿用紙にむかった。そして、気の狂ったライオンか、薬をぶっかけられたゴキブリのように、ものすごい勢いで文字をかきなぐりはじめた。一時間に一万二千字という新幹線ひかり号……いや、月ロケットなみのスピードで。  それはこんな内容の小説であった。  ある建築家が、三十九階半のビルを設計するよう依頼される。なぜ、三十九階半と端数がつくかというと、管理人の部屋が中二階なのだ。ケチな依頼者もいたものである。  ところでこの建築家は若くて天才的だったから、これまでのビルのように、土台を作ってから、その土台の上に一階、二階、三階、四階……と積み上げていく建築法をあらためたい、と考えた。  たとえば、まず、三十九階を作り、その次に三十八階をこしらえ、その次に三十七階をくっつける、という方法はとれないものだろうか。最後に、土台を築いて三十九階半のビルを支え、落成式ということはできない相談であるか。いや、できるはずである。人間より知能程度の低い蜂がこのやり方で巣を作っているのだ。人間の英知のまえに不可能などあるはずはない。  建築家はありとあらゆるありったけの脳味噌をしぼりつくして考えぬき、ついにある方法にたどりついた。それはコロンブスの卵と同じで、聞いてみればだれだって、なーんだと思うかもしれないが、まず、いままでと同じように土台を築いて、その土台の上に一階をのせて、それを三十九階と名づける。二階は三十八階で、三階は三十七階……、こうして最上階の三十九階は一階と名づければ、どうですか、ビルを三十九階から逆に作っていったことにはなりませんか。  もっとも、この方法はついに実行されずにおわってしまった。というのは、先にも書いたように、この建築家はこれだけのことを考えるのに、ありったけの脳味噌をしぼりつくしてしまったので、あとには脳味噌が一グラムものこっていず、こまかい図面をひくことができなくなってしまったからだった。建築家は図面をひくかわりに、図面に「へへののもへじ」やブタの絵ばかり描いて、それからの一生をすごしたのだった。 「なんというかなしい小説であろうか」  フン先生は泣きながらペンをおいた。 「脳味噌がなくなってしまうという危険をもかえりみず、脳味噌をしぼりつくし、新しい建築法を開拓しようとして、狂ってしまった若き天才に、神よ、天国のしあわせをあたえたまえ。仏よ、極楽浄土のたのしみをあたえたまえ」  フン先生はぼたぼたぼたと原稿の上に涙を落しながら、原稿をヒモでとじた。このへんてこな小説のために、フン先生も脳味噌をしぼりつくしていたので、涙腺のコントロールがきかなくなってしまったらしい。 「やあ、先生、何を泣いていらっしゃるんですか? 泥棒にでもはいられて、洗いざらいすっかり盗まれたんですか。それとも、税金未払いのためさしおさえでもくったのですかね」  アサヒ書店の主人がいつの間にかフン先生のそばに立っていた。 「おじゃましてます」 「ばかもの。わしがそんなくだらないことで泣くと思うのか。おやじ、この出来たてのほやほやの小説を読んでおくれ。出版したかったら出版してもいいぞ。読めばわかるが、おどろくべき傑作だ。おそるべき名作だ。歴史に残る大作であることは指切りゲンマン絶対確実」 「それは、それは。ぜひとも読ませていただきます」 「ところで、用事はなんだね。また、食料をさしいれにきてくれたのか」 「はいはい。先生のお好きなものを大量に仕入れてまいりました。玉子五十個、冷凍ラーメン、冷凍ワンタン各百食分……」 「ほう。それはありがとう。しかし、このごろ、おやじはばかに親切にしてくれるな。いったい、どういう風の吹きまわしだ?」 「先生にもうけさせていただいておりますから、これぐらい当然ですよ。じつはね、先生、例の小説『ブン』ですが、また増刷させていただくことになりました」 「なるほど。で、何冊ぐらい刷るのかね。二千部かね。三千部かね。ひょっとしたら、三千五百部ぐらい……?」 「冗談じゃありませんよ、先生。十万部ですよ。ハイ、これが十万部分の印税で、五百万円の小切手。どうぞ、おおさめください」 「けしからーん!」  フン先生は椅子からとび上がった。もうすこしで天井にぶつかるところだった。 「わしの小説が十万部も売れるわけはない!」 「先生、前に二万部刷っていますから、合計十二万部で」  アサヒ書店の主人がにこにこしながら訂正する。 「とにかく世の中が間違っとるわい。あの難解な小説を、そのへんの団地のおかみさんや、女事務員がやきいもかじりながら読むというのか。なんという侮辱だ」 「このあいだの一万冊は、一日で売り切れましたよ。本屋じゃ買えないというのでね、熱心なひとは、あたしどものところまで直接に買いにみえられるんです。ごらんください。この前歯を……」  主人は大きな口を大きくあけた。フン先生は遠くからその口の中を眺めた。近くに寄ると、その口の中へ吸いこまれてしまいそうな気がしたのだ。 「前歯が一本、欠けてるでしょうが? じつはある御婦人が『ブン』を一部ほしいと、わざわざみえられたんですよ。売り切れて一冊もありませんでしたから、そのとおり申し上げますと『いじわるオヤジ!』と、強力なパンチをちょうだいしました。そのパンチをあたしゃ、前歯で受けとめちゃいまして」 「それは気の毒だったな。しかしな、おやじ、いっとくが、十万部も刷って、あとで売れないから金かえせなどというなよ」 「だいじょうぶ。『ブン』はまだまだのびます。あと五十万は売れます。ときに、先生、おなか、空いてらっしゃるんじゃありませんか?」 「そんなこと、きかなくてもいい。わしのハラはいつでもすいとる」 「ゆでたまごを買ってきました。これは塩です」  主人はフン先生のまえに、タマゴと塩をならべた。フン先生は、さっそくタマゴをおでこにこん! とぶっつけ、われめをつけて皮をむいた。塩をつけた。がぶりとかみついた。そして、へんなカオをした。 「こら! おやじ! なんだ、このタマゴにはキミがないぞ」  フン先生は主人の目の前に半分かじったタマゴをぐいとつきつけた。たしかにキミがなかった。シロミだけである。しかも、キミのないタマゴはその一個だけではなかった。主人の買ってきた五十個のタマゴにはすべてキミがなかった。 「キミのないタマゴとはキミのわるいはなしだ」  アサヒ書店の主人が、そのとき、ポンと手を打った。 「そうか。わかりましたよ。これは、キミが盗まれたんですよ」 「盗まれただと? タマゴの殻もわらずにどうやって中のキミを盗むんだね。そんなこと不可能ではないか」 「いや、そうおっしゃいますがね、フン先生、ここ二、三日の間に全世界で何十万件という不思議な事件が起こってるんです。自由の女神のタイマツからアンパンのヘソにいたるまで、あらゆるものが盗まれてるんです。きのうなんぞ、台湾沖に発生した低気圧が盗まれましてね、とたんに天気がよくなりました」 「犯人はつかまったのか?」 「先生、あいては低気圧を盗もうっていうスケールの大きなやつなんですぜ。とてもつかまるものですか」 「まてよ」  フン先生はあることに思いあたってがくぜんとした。 (そんなとほうもない盗みをやるやつはひとりしかいない。ブンだ。ブンが活躍をはじめたのだ)  フン先生は立ち上がった。 「おやじ! わしを警察長官のところへつれていってくれ」 「先生、どうなさったんですか」 「つべこべいうな! 事は急を要するのだ。さっさと車にスイッチをいれろ!」  クサキサンスケ警察長官は、自宅で布団をかぶって寝ていた。じっさい寝るよりほかに方法がなかったのである。クサキサンスケ氏が警察長官に就任してから、ニッポンの大犯罪や小犯罪の数がすっかりへってしまった。というのはつまり、クサキサンスケ長官の犯人捜査術がすこぶるすぐれたものだったから、犯人はかならずとっつかまってしまうのだった。かならず、つかまるとわかっていて、悪いことをするやつはばかである。  だいたいクサキ長官の強味は若いとき、床屋と風呂屋のサンスケをしていたことである。このふたつの経験が、彼に独特の捜査法を思いつかせたのだった。  まず、彼は床屋をしているときに、日本人のアタマの毛が十万本であることを発見した。西洋人のアタマの毛は八万本であるから、たとえば、日本人がいくら西洋人に変装しようとも、アタマの毛を数えれば、いっぺんで正体を見やぶることができる道理である。  つぎに、彼は風呂屋のサンスケをしているときに、アタマの毛のうすい人はアタマ以外の身体の毛、体毛がこく、アタマの毛のこい人は、体毛がうすいという事実に気がついた。つまり、人間の身体全体の毛は、はげだろうとふさふさしていようと、それとは関係なく一定の本数であるというのである。  彼はこの発見から「エネルギー不変の法則」にならって「体毛不変の法則」という、有名な犯人捜査原理をつくりあげた。たとえば犯罪現場に犯人の毛が五十三本ほど落ちていたとすると、容疑者たちの毛を数え、あるべき毛の総本数から五十三本、毛のすくないやつを真犯人に断定すればよいわけである。  では、人間にあるべき毛の総本数は何本であろうか。これをつきとめるためにサンスケ氏はドエライ苦労をしたものだった。毛を数えるぐらいお茶の子ではないか、という人があったら、その人は実際に自分の身体に毛が何本あるか数えてみるがよい。意外にも、ピラミッドを築くよりも困難な大事業であることに気がつくはずである。一本一本数えるのは手軽だが、数え終わった毛と、まだ数えていない毛との区別がなかなかつけにくい。そこでクサキサンスケ氏は、数えたというしるしに、毛の一本一本にリボンをつけることにした。これなら、正確であるが、なにしろ毛は何万本とあるから、その一本一本にリボンをつけると、まるでリボンのかたまりが歩いているようにみえ、さらに、毛の勘定がすすみリボンの数がふえてくると、何万本というリボンのおもみで首の骨がミシミシいいだした。クサキサンスケ氏は、涙をのんでこの方法を中止した。  次に思いついたのは、「ここからここまでは数え終わったよ」と数え終わった区域をサインペンで、かきこみ、かこってしまう方法だった。けれども、ある日、サンスケ氏はうっかり風呂にはいってアタマを洗ってしまったので、インクは流れ出し、せっかくの苦心も水の泡ならぬシャボンの泡。しかし、これぐらいでひるむようなサンスケ氏ではない。つぎに彼は、すばらしい方法を思いついた。  サンスケ氏は下宿の部屋に一月分の食料をたくわえ、一か月は外出しなくてもすむように準備をした上で、身体中の毛を一本のこらず、カミソリでそり落してしまったのである。そして、その毛を袋につめこみ、一本ずつ袋から出して数えたのであった。ところが、あと数百本で、毛を全部、数え終わるという日に、下宿が火事で焼けてしまい、サンスケ氏の研究はまた実を結ばずに終わってしまった。  けれども、サンスケ氏は不屈だった。  最後に彼は猿を一匹買って、その毛をすべてそり落し、また、はじめから数えはじめたのである。むかしから、「猿は人間さまより、毛が三本すくない」といわれている。ならば、猿の毛を数え、その総本数に「三」を加えれば、人間の総本数がわかるはずである。デボノ博士の水平思考もかなわぬじつにすばらしい考え方ではあるまいか。  こうした苦心の末、クサキサンスケ氏は、人間の毛の総本数は十万六千八百本であることをつきとめ、これを犯人捜査に利用し、警察長官にまで出世したのであった。  ついでだから、もうすこしクサキサンスケ長官の犯人捜査法について話そう。長官は、論理を重んじた。 「なにがなにしてなんとやら」  という論理が、彼の捜査法のもう一本の柱であった。これはシャーロック・ホームズの捜査法とよく似ている。ホームズは、袖口のすりきれている男をみて、 「あなたの職業は事務員ですな。袖口がすり切れているのは、あなたが机にすわりっきりでペンを動かしているためです」  なんて、わりかしカッコのいいことをいって何事も見抜いてしまう。クサキ長官はホームズのようにカッコよくやりたかった。そこで「犯人さがしの推理力を養うための論理ソング」という長い題名の歌を、村の交番のおまわりさんから、本庁の捜査一課の刑事さんにいたるまで、全国の全警察官に歌わせたのである。五十三番まである長い歌だが、ためしに全部書いておこう。 雨の降る日は 天気がわるい 雪の降る日は あちこちまっ白 犬が西向きゃ 尾は東 馬が西向きゃ 尾は地べた ラッキョの皮むきゃ 中もラッキョウ 夕陽が沈めば 日がくれる 火のないところに 火事はない KO勝ちすりゃ 相手はダウン ズボンはいつも 足からはくよ 悪事するやつ みな悪人 なにがなにして なんとやら 論理 学んで 犯人逮捕 それが世のため 国のため カッコイイネ カッコイイネ 本を買うなら 本屋へお行き 髪を刈るなら 床屋へお行き 親は子よりも 年上で 子は親よりも 年下だ 煙草喫う時は 口から喫うよ だけど煙は 鼻からも出るよ 化粧するのは みな女 化粧する男は みなホモだ 人を見たらば 泥棒と思え 泥棒を見たら 一一○番 なにがなにして なんとやら 論理 学んで 犯人逮捕 それが世のため 国のため カッコイイネ カッコイイネ 顔の赤いは よっぱらい 顔の蒼いは かっぱらい 屑籠担ぐは くずはらい 家主がよろこぶ まえばらい 高くつくのは あとばらい 人の気配だ せきばらい 秘密のはなしは ひとばらい 勲章を持つ人は みなえらい バスの車掌 バックオーライ 塩を舐めれば しおからい 塩と砂糖じゃ あまからい 子どもは大抵 にんじんきらい 日暮れはだいたい うすぐらい おなかこわすは おおぐらい 殿のまわりは みなけらい 目つきけわしき ひとさらい ひとのいやがる どぶさらい バケツの親玉 おおたらい 冬の洗濯 こりゃつらい 栄枯盛衰は 世のならい 外野手バンザイ 大フライ 過去の反対 そりゃみらい 出ものはれもの ものもらい 耻をかく人は ものわらい  三番の歌詞はをひくときゃ 全力で 車をひくときゃ ゆっくりと 線路をひくときゃ まっすぐに 線をひくときゃ 定規に頼れ 非常線ひくときゃ 命令一下 鋸ひくときゃ 根気よく 糸がひくときゃ 釣り上げろ 眉をひくときゃ 眉墨で 人をひくときゃ こっそりと なにがなにするときゃ なになのだ 論理 学んで 犯人逮捕 それが世のため 国のため カッコイイネ カッコイイネ     刀をさすのは お侍 人をさすのは 人殺し 双差さすのは 角力とり 将棋さすのは 将棋さし 泥鰌さすのは 泥鰌屋で 注射器さすのは お医者さん 水をさすのは 傍観者 天をさすのは お釈迦さま 花をさすのは 女の子 傘味だ 講義きくのは 大学生 叱言きくのは 悪戯坊主 虫の音きくのは 秋の夜 鳥の音きくのは 山の中 注文きくのは 御用きき 左手きくのは 左きき あとできくのは 冷酒で 睨ッ怪至極な事件には、まいってしまった。しかし、世間の人たちは、警察官は犯人をつかまえるのが当然だと思っているから、警察官の総元締が「まいった」といっても「ハイ、さようですか」とカンベンしてはくれない。 「警察はなにをしているのか」 「税金泥棒」  泥棒をとっつかまえる方が、泥棒よばわりされたのではやりきれない。そんなわけでクサキサンスケ長官は、うどんくって寝ちゃったわけである。 「長官! 長官! 長官閣下!」  秘書役の婦人警官が、声をかけた。 「なにかね? 新聞記者がまた吊し上げにでも来たんじゃろう。わしはあわんよ」 「小説家のフンという方が、どうしても、閣下にお目にかかりたいとおっしゃっておみえですが……」 「小説家のフン? 知らんね。わしはだれにもあいたくない。追いかえせ」  追いかえすどころかフン先生は、案内なしで、もう、サンスケ長官の寝室まではいりこんでいた。 「サンスケ長官、わがはいフンです。職業は小説家じゃが……」 「あなた、非常識な人ですな。家宅侵入罪で逮捕されたいのですか」 「長官、わがはいの話をまずお聞きなさい。聞けばきっと感謝します。長官、ここ数日、世界中で、奇ッ怪な盗難事件が発生しておるそうじゃが、その犯人をわがはいよく知っているのだ。いかがかな、長官。それでもわがはいを追いかえそうとなさるおつもりか?」  長官は、あわてて起き上がった。 「犯人をごぞんじだとおっしゃるが、そりゃほんとですか」 「うむ。ブンという大泥棒が犯人じゃ」 「ブン?」  長官は秘書の婦人警官の顔を見た。  婦人警官は記憶力抜群、古今東西のありとあらゆる悪人の名前を諳じていた。針金一本で高級車ばかりを一週間に二台ずつ、二十年間ぬすみまくっていたアメリカの自動車泥棒王フリーマン、狙った金庫三百六十八個のうち、開かなかったのはただの三個だけという世界一の金庫破り王イタリア人のデム、あいてかまわずだれでも襲いかかり、女の子をつれさって奴隷にする南アフリカの凶悪な盗賊団「ライオン」のめくらの首領ホールス(この男はめくらでありながら、ピストルのウデはどういうわけか百発百中なのであった)、黄いろの制服をきて、銃と槍を武器に金品を奪うチベットの山賊団「ハゲタカ団」の親玉ジジラ和尚、盗むときは必ず赤い手袋をはめているために「赤手」とよばれるエジプトのギャング団のボス・ピーン、同じように塁を盗むとき赤い手袋をはめている巨人軍の柴田選手(この婦人警官は野球を知らなかったので柴田選手を大泥棒だと思いこんでいた)——以上のような大盗賊から、ほったらかしにしておいても、どうということのない賽銭泥棒まで、すべての犯罪人の名前が、彼女の灰色の脳細胞のなかに叩きこまれていた。  婦人警官は答えた。 「ブンなんて泥棒はおりませんわ、長官」 「あなた方がブンを御存知ないのは当然じゃ。ブンというのは、わがはいの小説のなかの主人公ですからな。やつは、わがはいの小説のなかからぬけだし、世の中に出ていってしまったのですじゃ」 「小説の中からぬけだしたですと?」  長官はがっかり、肩を落して考えた。 (おそらくこの小説家はくだらぬ小説を書きとばしすぎて、アタマの脳味噌が乾上がってしまったらしい) 「長官、あなたはわがはいのことばを信じないのか」 「信じられませんな。小説の中から小説の登場人物が抜けだすわけはない! そんなことは不可能です」 「しかし、やつは不可能を可能にする四次元の人間じゃから……」 「とにかく、常識では考えられませんな」 「ブンのまえに常識は通用せんのじゃ」  長官はすこしむしゃくしゃしてきた。 「常識が通用しないだと? それは警察に対する侮辱でありますぞ。われわれ警官は常識を唯一のよりどころとして仕事をしているのですからな。だいいち、すべての捜査は、常識をもとに行なわれる。人間は同じ時間にふたつ以上のちがう場所に居ることはできない。これ常識。この常識をもとにわれわれは容疑者のアリバイを調べ犯人を発見する」 「ごもっともな御説じゃ。しかし……」 「人間はだれひとり同じ指紋を持っていない。それが常識。そこでわれわれは容疑者の指紋と、現場にのこされた指紋を照合し、犯人を発見する」 「たしかにおっしゃるとおりじゃ。が、しかし……」 「良い方が善人、悪い方が悪人。これも常識。そこでわれわれは善人を守り、悪人をこらしめる」 「まったくご苦労さまなことで。しかし……」 「常識こそわれわれの生命です。われわれの唯一の神です。そのわれわれが、あなた、どうして小説の中から人間がとびだしたなどという非常識なはなしを信じることができますか」  フン先生は困ってしまった。サンスケ長官のいうことはもっともなのだが、しかし、ブンが生原稿から抜けだしたのも厳たる事実なのである……。  一方、クサキ長官はひさしぶりに胸がすーっとした。論理的に、筋道をたてて相手の議論を打ち破るのは、なんと爽快なことであろうか。 「フンさん、時間の無駄です。きみ、フンさんをお見送りなさい」  婦人警官は、フン先生の右手をやさしく逆手にねじあげて、先生を屋敷の外へ連れ出していった。 「フンさん。二度とばかばかしいはなしを持ちこまないでください」  狩猟家にはふたとおりある。  まず、猛獣を見ればただ鉄砲をぶっぱなし、首を応接間などにかざってよろこんでいるタイプ。もう一方は猛獣の習性をよく心得ていて、猛獣の習性を逆に利用して生けどりにするタイプ。どちらが狩猟家として上か、というと、いうまでもなく後者である。  ジョン・クインクは後者のタイプの狩猟家で、ニューヨークのオフィスにいる時間よりケニアの草原や、アマゾン河にいる時間の方が多かった。ジョンはとくにライオンにくわしかったが、さて、ライオンにくわしいとは具体的にどういうことか。ライオンにくわしいとは、じつはライオンの糞にくわしいということなのである。ジョンはライオンの糞をみて、ライオンのオスメスの区別から、その糞の主の精神状態までわかるのであった。 「おやおや、この糞はどうしても五時間はたっていそうなのに、へんにやわらかいぞ。このライオンは下痢しているな。それに、このライオンは、あちこちに糞をしている。つまり、イライラして落ちつかなかったのだ。えーと、それで、ここに落っこっている糞より、右の方の糞の量がすくない。ということは、右の方へ移動しながら糞をしたのだな。つまり、ライオンは五時間前にここをとおって右の方へ行ったのだ。イライラしてるから、あちこち道草をくう。すると一時間に五キロも進んでいないはずだ。……なーるほど、テキはここから右の方、二十五キロはなれたところにおるな」  こういう具合に、なんでもわかってしまうのである。  さて、ジョン・クインクは、このごろ、ライオンより鰐に興味をもっていた。鰐は素手でつかまえることができるからである。長さ一メートル前後の丸太ン棒にロープをつけて、鰐の出そうな河っぷちに立って、鰐があらわれたら、そろっそろっと逃げるのである。鰐は凶暴だが、ライオンほど利口じゃないからつられて岸に上がってくる。そのとき、丸太をたてに構えて鰐の口めがけてとびこむのである。人間でも動物でも「アッ」と驚くと口をあんぐりとあける。鰐もその例外ではない。じつに大きく口をあける。そこへ丸太をたてるのだ。なんどもいうようだが、鰐は利口じゃないから丸太をかみくだこうとする。口をとじようとする。丸太はますますがっちりと、鰐の口にはまりこむ。あとは、助手たちと鰐を檻までひきずってきて、檻に入れてしまえばよいのである。  さて、東京でフン先生がクサキ長官とあっていた日、ジョンはアマゾン上流の岸に立って、鰐のあらわれるのを待っていた。ジョンは手に兎のはいった籠をさげているが、この兎はいわば鰐を探知するためのレーダーのようなもので、兎は臆病だから、自分より強そうなやつが近づくと、やたらに大さわぎをするのである。と、兎がさわぎはじめた。 「きたな、鰐公」  川面を見ると、鰐が丸太ン棒のように、すーっとこっちへ流れてくる。 「ばかな鰐公め。丸太ン棒に化けたつもりでいるぞ」  ジョンは、丸太ン棒をしっかりにぎりしめた。神経は張りつめるだけ張りつめている。身体中の筋肉が次に起こす行動に備えて総動員されている。ひとかたまりの筋肉も、さぼったり、なまけたりしてはいない。ジョンはこの瞬間がこよなく好きなのである。このスリル。いまなら逃げても間に合う。だが、ぐっと踏みとどまって戦おうというこの男らしさ。  鰐が三メートルぐらい手前でとまった。  ジョンは一歩しりぞく。鰐が二歩前進する。ジョン、また一歩後退。鰐、二歩前進。ジョン一歩後退。鰐二歩前進……。  この調子でいくと鰐がジョンを追いこしてしまうが、それは算術的計算であって、現実はちがう。  ジョンは、頃合いを見はからって、逆襲をかけようとして右手の丸太ン棒をにぎり直したが、そのとき、ふわん! と丸太ン棒が消えてしまったから驚いた。 「しまった! おっことしたか!」  と、目を下目使いにして地面を見たが、丸太ン棒はない。こうなりゃ逃げるよりほかに手はない。だが、その前に鰐の方が行動を起こしていた。  ジョンの右足に、鰐がガブッ!  ジョンは死んだ。……とだれでも思うであろう。ところが、死にはしなかった。鰐がジョンにかみつこうとしたとたん、こんどは鰐の方が消えてなくなってしまったのである。  このとき以来、ジョンはふっつりと狩猟をやめてしまった。いまじゃ、近所の雀を空気銃で射落とすのに熱中している。 「だってさ、相手が雀なら、いつ、空気銃が消えてなくなっても平気だからね」  さて、同じ頃、深夜の東京の銀座の下水道を五人の怪しげな男たちが歩いていた。五人とも、それぞれ、宝石箱を小脇にかかえている。 「イヒヒヒヒ」  五人のなかでは、一番えらそうな男が笑いだした。 「三越デパートの世界宝石展は明日から中止だぜ。なにしろ、おれたちが宝石を全部盗んできちまったんだからな」  五人は日本でも指折りの強盗団の一味だったのである。 「ボス、ボス!」  先頭の男が叫んだ。 「どうしたい。なにをおびえた声をだしてやがるんだ」  一番えらそうな男がたしなめた。 「おれたちは、いまや日本一の宝石泥棒なんだぜ」 「でも、様子がどうもおかしいんですよ。耳をすませてきいてごらんなさいよ。なんだか妙な音がするんで……」  たしかにそれは妙な音だった。たとえていうなら、巨大なゴキブリがゴソゴソサワサワヒタヒタと水の中を這ってくるような……。 「あ、ボス! 丸太ン棒です。丸太ン棒が何百本、いや何千本かな、こっちへ流れてくるようです」 「なーんだ、丸太ン棒か……。チェッ、ひとをびっくりさせやがる。おい、みんな、壁ぎわの手すりの上にのぼれ。丸太ン棒にぶっつかって足の骨くじいてもつまらねェ」  だが、五人の男は間もなく、その丸太ン棒が、ただの丸太ン棒ではないことを知らなくてはならなかった。丸太ン棒が突然、五人に、かみついてきたのである。 「あーッ ボスッ、わ、わ、わにですぜ」  スコットランドの火山岩地帯を切り裂くように細長く斜めに走るネス湖は、不思議な湖である。すべてが霧と氷に閉ざされるスコットランドの冬がやって来ても、この湖は凍らない。周囲の山から流れ落ちる水は鉄分を含んで茶色に染まり、それが光線のぐあいで湖の色を無気味に変化させる。深くたくわえられた水は、厳しい北国の冬が来ても、自然に上下の環流をくりかえして凍結を防ぐ。  ネス湖に怪物がいるのではなかろうか、と噂が立ったのは一九三三年、湖に沿って新しい道路がつくられてからである。それ以来今日までの三十六年間に三千人の怪物目撃者が出ているのだが、目撃者の証言は、「長い首を上下にふりながら、ゆっくりと湖を泳ぐ、全長十メートルぐらいの怪物」だったと、ほとんど一致している。  七年前に民間の資金を集めて作られた「ネス湖調査局」には八百人の会員がいて、交替でネス湖を見張ることになっているが、今週はマッカーサーくんが当番だった。  マッカーサーくんは、ロンドンの写真学校の優秀な生徒であるから、湖畔のキャラバン車に超望遠レンズつきのシネカメラを備えつけ、油断なく湖上に目をくばっていた。 「ぼくの考えでは、この湖に棲む怪物は次の五つのうちのどれかにちがいない」  マッカーサーくんは、ファインダーをのぞきながら、ぶつぶつ、つぶやいた。 「第一は長い首をしたアザラシだ。第二が爬虫類。淡水に適応し、変化した古生物の蛇頸竜か。第三に巨大な山椒魚の可能性もあるな。第四に魚類の巨大なウナギ。第五は巨大な軟体動物、さしずめナメクジのお化けのようなやつ」  そのとき、ファインダーの中に黒い影が踊った。 「なんだろう?」  ピントをあわせて、マッカーサーくんあっと驚き、キャラバン車からころがり落ちた。長い首を上下に振りながら、全長十メートルぐらいの黒い怪物が、湖を南から北へゆっくりと泳いで行くではないか。マッカーサーくんは、夢中でキャラバン車によじのぼり、フィルムをまわした。  マッカーサーくんが、ネス湖の怪物の望遠撮影に成功したという、ニュースはたちまち全世界にひろまった。イギリスでは、日本のNHKにあたるBBC放送局がフィルムを買いにきた。アメリカのディズニー・プロは五十万ドルの値段をつけてきた。五十万ドルといえば一億八千万円である。マッカーサーくんは迷ったが、彼は愛国者だったのでBBC放送に百万円で、フィルムを売った。フィルムはマッカーサー君自身の手でロンドンに運ばれ(このときボディ・ガードが三十八人ついた)BBCの現像所でおまわりさん立会いのもとに現像された。  同時にBBCの試写室には、マーガレット王女はじめ、王室、政界、学界の大立物がつめかけ、マッカーサー君の世紀の大特種フィルムの試写を待っていた。現像が終わったフィルムは大至急で乾燥され、映写機にかけられ、第一回の試写がはじまった。  画面はまずネス湖の遠景。カラーだからとてもきれいである。やがて、画面の右はしに黒い影。すぐ、黒い影にピントがあう。と、たちまち、ズームイン! 黒い影が画面いっぱいにひろがった。ネス湖の怪物の正体はついに今、明らかになるのである。試写室の人たちは、思わず知らず、ぐーっと膝をのりだした。  画面にはふたりの人間がうつっていた。  東洋人らしく、ふたりとも目が細い。一方は細い上にちっこい目で、一方はたれ目であった。試写室の中には日本人がひとりいたが、彼は、なつかしそうに叫んだ。 「あっ! キンちゃんにジローさんだ。おひさしぶりだね! コント号……」  同じころ、東京有楽町ッ怪な生物にかわったので、試写室にどよめきが上がった。試写が終わってから製作者が監督にいった。 「コント号が、湖の上でへんな怪物になるのは、ありゃなんだね。ギャグのつもりか」  監督は、試写の間ずーっと居眠りしていたのですこしあわてた。 「そんなシーンがありましたか? おかしいな、ぼく、そんなシーンを入れたおぼえはありませんがね」 「ごまかすんじゃない。あのシーンは無意味だ。カットしたまえ」  監督はいわれたとおりに問題のシーンをカットして、小学一年生の息子にくれてやってしまった。小学一年生の息子は、だから、ディズニー・プロへ持っていけば一億八千万円になるフィルムをおもちゃにして遊んでいるわけである。  アリストテレス・ソクラテス・オナシスはギリシャの大富豪である。彼がどれぐらいスケールのでかい大金持であるか、たとえば、彼が世界各地に持つ住居だけをあげてみよう。  まずオナシスはスコルピオスという島を持っていて、そこには大別荘があり、召使七十二人がはたらいている。モンテビデオという観光地には、牧場つきの大邸宅があり、召使は三十八人。モンテカルロにも別荘がある。召使が七人。パリの高級街にマンションがある。マンションには召使が五人。アテネにも別荘がある。召使が十人いる。ニューヨークにもマンションがある。召使が五人。ほかに、元カナダ海軍のフリゲート艦を改装した「クリスチーナ号」という豪華ヨットがあって、船長以下乗組員が六十五人。  またまたこのほかに、ロンドンの一流ホテル「ホテル・クラリッジス」と、ニューヨークの最高級ホテル「ホテル・ピエール」には、一年三百六十五日、オナシス用の続き部屋がとってある。これらの維持費が一年で五百万ドル。召使やヨットの乗組員の給料が一年で百万ドル。つまり、オナシスは住居費だけで一年に六百万ドルつかっているわけなのだ。日本の金になおして二十一億六千万円! 王選手や長島選手がいくら働いても一生で十億円かせげるかどうか疑問である。たとえ、十億円かせげたとしても、それはオナシスさんが住居に使う金のわずか六か月分にも足らないのだ。(諸君のなかにアンチ巨人ファンがいたら、ぜひこのページを切りとって、王選手か長島選手の家に書留速達便で送りつけるべきである。両選手は一生、ボールをバットでひっぱたいても、ギリシャあたりの金持の半年の住居費にもならないことを知って、やる気をなくす。王と長島のいない巨人なんて、空中ブランコのないサーカス、ヘソのないアンパン、しまらないことおびただしい。すぐ「キリトリ線」から切って両選手に送りましょう。一方、巨人ファンは、アンチ巨人ファンの先まわりをして、本屋の本棚から、この本を一冊のこらず買いしめてしまいなさい)  さてオナシスさんは、奥さんのジャックリーヌ・オナシスさんと、ひさしぶりに、スコルピオス島の大別荘でおちあって、夕御飯をともにした。  夕御飯と簡単にいったけれども、これがたいへんな夕御飯なのであって、まずぶどう酒が一八五○年のブルゴーニュの年代物で一本八万円はする。それを二本のむ。オードブルがフランクフルト・ソーセージ。本場ものだから運送費や、途中で受けわたしする商人のもうけや、税関のお役人の買収費などを入れると一本一万円にはなる。それを六本たべるから六万円。ステーキは生ステーキ、これは牛の肉のなかでも、最も筋のすくない部分を料理人が包丁で何時間も切りきざみ、ペーストのりのようにしたものに、玉子や玉ねぎを刻んだものをかけてたべるというぜいたくで、すてきなステーキで、一人前二万円はする。二人分で四万円。サラダはまあたいしたことはない。千円程度であろうか。  デザートは、グレープ・フルーツに日本の塩せんべい。塩せんべいを日本でたべれば、一枚五円にもならないが、ギリシャあたりでたべようとすると、フランクフルト・ソーセージと同じことで一枚五百円ぐらいについてしまう。ほかにオナシス氏が食後に喫う特大の葉巻は「オナシス」と金ぱくの名入り葉巻。プーッと煙をはくと、「オナシスバンザイ」と煙文字を空中に描きだすというから手がこんでいる。これが一本千五百円。これでいくらになったかというと、十八万円あまり。  さて、夕食を終わったオナシスさんとジャックリーヌさんは、夕暮れの海の見えるバルコニーに出て、よもやまばなしをはじめた。そこへ、召使頭が食後のコーヒーを運んできた。が、召使頭は目を疑った。一秒前までたしかにバルコニーに仲よく坐っていたはずの主人夫妻の姿が消えていたからである。  同じ頃、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでは、世紀の大奇術師フーディニ二世が満員の観客の前で、お得意の「人身消滅術」を披露しようとしていた。 「ただいまより、わたくし、これなる男女にシーツをかぶせます。そして一秒。すぐにシーツをとりのぞきますが……さて、これなる男女はどうなっておりましょうか。それはごらんになってのおたのしみ!」  前口上が終わると同時に、フーディニ二世は、助手の男の子と女の子にぱっとシーツをかぶせた。 「アブダラカブダラ!」  呪文と共にシーツをとれば、そこにはもうだれも……いたのである。かつてこの国の大統領夫人だったジャックリーヌと、世界の大富豪オナシス氏によく似た男女が立っていたのであった。オナシス氏とよく似た男が分厚い唇からプーッとはきだした葉巻の煙は、空中に「オナシスバンザイ」という煙文字を描いた。  あっけにとられていた観客も、煙文字を見て、どっと笑いだし、雷のような拍手をフーディニ二世におくった。  なんというすばらしい奇術であろうか!  と、もっと驚くようなことが起こった。拍手と共に、ジャックリーヌとオナシスによく似た男女の姿が、サッとかき消すようにいなくなってしまったのである。観客はまたびっくりし、いっそう熱心な拍手をフーディニ二世におくったのだが、じつはいちばんびっくりしたのは、フーディニ二世その人だった。 (打ち合わせと全然ちがうぞ、こりゃ。でもまあいい。これだけ受けりゃ打ち合わせなんかどうでもいいや)  スコルピオス島の大別荘のバルコニーで召使頭は、はっとわれにかえった。四、五秒の間姿を消していた主人夫妻が、目の前にいるではないか。 (こりゃいかん)  召使頭は主人夫妻の前にコーヒーカップを置きながら思った。 (わしはどうかしている。明日、お医者に診てもらおう)  そのとき、主人夫妻もこんな会話をかわしていた。 「ジャッキー、いま、わしはこのバルコニーの前にたくさんの人がいて、わしらに向かって拍手したような気がしたが」  ジャックリーヌがこたえた。 「まあ、ぐうぜんね。わたしも四、五秒の間だけだけれど、わたしたち、大勢の人の前に出たような気がするわ」  読者諸君。わたしは、いつまでも、こんなことを書いても仕方がないような気がしてきた。これに類した事件はいたるところに発生していたから、いくらでも書けるのだが、しかしいくら書いてもきりがない。そこで、もうひとつ、きわめつきの大事件を書いて、この種のはなしを打ち切りとしよう。  アメリカのテキサス州ヒューストンから打ち上げられた一隻の宇宙船が、月面に着陸しようとしていた。着陸地点は一九六九年の七月に、同じアメリカの宇宙船が着陸した静かの海。もちろん、この様子はテレビ衛星によって全世界に中継されていた。  テレビの画面に、月の荒野がひろがっている。宇宙船から、ダスティン船長が降りてくるのが見える。宇宙船の横、五メートルの地点には、最初の宇宙船の宇宙飛行士たちがたてた星条旗がある。 「こちらダスティン船長。星条旗がたおれかかっているが、まっすぐに直してよろしいか」 「こちらヒューストン。すばらしいアイデアだ。星条旗をまっすぐに直してくれたまえ」  ダスティン船長は、ゆっくり星条旗に近づいた。が、どういうわけか、星条旗はいつの間にか、コカコーラの自動販売機にかわっていた。ダスティン船長は肩をすくめ、カメラに向かって笑ってみせた。 「月面にコカコーラの自動販売機があると知っていたら、コインを持ってくるんだったよ」  ヒューストンの宇宙基地は、ダスティン船長のジョークに笑うどころではない。 「ダスティン船長、こちらヒューストン。コーラの自動販売機に近づいてはならぬ。気圧の関係でコーラが爆発する危険がある。それからダスティン船長、なぜ、月面にコーラの自動販売機が存在するか至急調査せよ。これまでいかなる宇宙船も、コカコーラの自動販売機を積んで地球をとびたったという記録はないぞよ」 「オーケイ! オーケイ!」  ダスティン船長は、カメラに向かって手をふって、いった。 「もうすこし、自動販売機に近づいて調べてみよう」  ダスティン船長は二歩三歩、販売機に歩みよった。そのとき、テレビにしがみついていた全世界の視聴者は、いっせいにあおざめた。というのは、見よ! はるか月の地平線の彼方から、宇宙服に身を固めた生き物がぴょーんぴょーんと、とんでくるではないか。ヒューストンがわめいた。 「ダスティン船長、至急、宇宙船にもどれ。正体不明の生物が、君に接近しつつあるぞ」  ダスティン船長も、正体不明の生物がやってくるのを見た。そしてつぶやいた。 「やれやれ。こうとしったら、くるんじゃなかった」  正体不明の生物は、ダスティン船長と同じような宇宙服を着ていた。なんだか人間とよく似た恰好である。そいつは、なれなれしくダスティン船長に手をさしのべていった。 「やあやあ、ダスティン船長ですね。はじめまして」  ダスティン船長はいった。 「あなた、いったいなにものです。どこかの星からおいでになった宇宙人ですか? もしもそうなら申しあげておきますがね、この月は地球人のものです。地球人は一九六九年の七月に、すでにこの月に着陸しとるんですからな」  正体不明の生物はケッケッケッと笑って、 「ご心配なく。わたくしも、地球からきたんですから」 「地球から? どうやって?」 「テレポーテーションによってですよ」 「テレポーテーション? SF小説によく出てくる、瞬間移動ってやつですか? ある場所から他の場所へ、一瞬の間に人間や物体が移動するという、あのテレポーテーションですか?」 「よくごぞんじですな。そのとおりです」 「信じられませんな」  ダスティン船長は首をふった。 「信じたくなきゃ信じなくてもけっこう。とにかくわたしはテレポーテーションによって、月へ散歩にやってきたんですからな。このコカコーラの自動販売機だって、わたしが持ってきたんですがね」 「おいおい、与太をとばすのはやめろ! そんなことができるものか」 「できたらどうしますか?」 「逆立ちしてこのへんを歩いてみせる」 「では、ほんのしばらくおまちを……」  正体不明の生物は二、三秒ほどテレビの画面から姿を消し、それと同時にコーラの自動販売機も消えた。が、すぐに日本の国鉄の切符自動販売機がひょいとあらわれ、そのそばに、宇宙帽の上に国鉄駅員の帽子をかぶった正体不明の生物もあらわれた。 「おまちどうさま。これは日本の国鉄の切符自動販売機だがね、東京駅のをちょっと借りてきたのだ。しかし、ひどい自動販売機だよ、これは。ためしに有楽町までの切符一枚出してみたのだが、インクがぼたぼたと出やがって、手がまっ黒になっちまいやがった。どう? 地球に帰りたかったら、この販売機にコインをほうりこんで切符を買わないかね?」  ダスティン船長はしゃっぽをぬいだ。 「おそれいりました。約束どおり逆立ちしよう」  ダスティン船長は逆立ちして、切符の自動販売機のまわりを三回まわった。その間に正体不明の生物は、カメラに向かってその正体をあかしたのである。 「やあ! 地球のみなさん、こんにちは。わたしゃブンという四次元の人間で、職業は泥棒です。このごろ、地球上に奇妙な事件がたくさん起こってるでしょ? あれはじつはぜんぶ、あたしの仕業なのよ」  ヒューストンの宇宙基地から、ブンに質問がとんだ。 「ブンと名乗る人間にたずねる。貴殿はどこでどうやって発生したのであるか?」 「発生だと? いっとくけどこっちは、ぼうふらじゃねェや。あたしゃね、小説家のフンの小説『ブン』のなかから抜けだしたのさ。つまり、生みの親はフン先生ってことになるね」  ここでブンはポケットから一冊の本を出すと、表紙をカメラに向けて、あの有名な俳優のように気取っていった。 「読んでますか?」  その本は日本のアサヒ書店から発行されたフン著『ブン』であった。  この宇宙中継が終わると、ものの十分もたたないうちに日本中の書店から、小説『ブン』は売り切れてしまった。また、その日のうちに世界百二十か国の三千五百あまりの出版社から、東京のアサヒ書店に、翻訳権をゆずってほしいという申しこみが国際電報や国際電話で殺到した。  一晩のうちに「ブン」という名の喫陽ヶ丘のある中華料理店のコック長推薦のブタマンジュウの名前)  さて、四次元の大泥棒ブンの生みの親だというので、やがてフン先生が一躍、時の人になったのはいうまでもない。岡の上の畑のまんなかにたつフン先生の家のまわりは、まるで新内閣組閣のときの首相官邸の前のごときにぎわいようだった。新聞社や放送局の取材テントがたちならび、物見高い野次馬連中でごったがえしていた。  ブンが月面に出現し、自分から正体をあかし、世界中の人たちをあッ! といわせた日の夜、テレビ各局は共同で「フン先生をかこんで」と題する特別番組を放送した。そのときの様子を始めから終わりまで、こまごましたことまで全部、ここに再録してみよう。  まずファースト・シーンは、岡の上の畑の中のフン先生の一軒家の遠景からはじまる。(近くの森の、いちばん高い杉の木のてっぺんにカメラをすえてとったもので、木登りの上手なカメラマンがいたおかげでこんな絵がとれた)遠景が望遠レンズでぐわーっとアップになると、フン家の玄関の大写し。障子の破れが画面にサイケデリックな、えもいわれぬ雰囲気を盛りあげる。とここで、フン家の裏口の便所の汲取り口と縁側の二手にわかれて待機していた踊り子が、ビートのきいた新リズム「ブンチャッチャ」にのって登場、大根畑に向かって大根足をふりながら、黄色い声をはりあげて、テーマソングをうたうのである。作詞家が五分ででっちあげたものだから、くだらない歌詞だ。 ブンチャッチャ ブンチャッチャ 四次元の ブンをつくった小説家 フンさんのお家は ここなのよ! 人里はなれた岡の上 豆腐屋へ四キロ 酒屋へ五キロ ただよう匂いは 肥料の匂い ああ! この片田舎に フンさんは 住んでいるのだわ!  音楽がきまって踊り子たちは、フン先生の玄関に向かって手をさしのべてポーズをとる。すると玄関から元気よくとびだしたのはフン先生……ではなく司会者である。フン先生の玄関に向かって手をさしのべたのだから、ここは当然フン先生が登場すべきであるが、制作者は司会者のカオをたてたのであった。 司会者 「みなさんこんばんは。野球はなんとか、司会はなんとかのなんとかかんとかです。ぼくはいま、世界をさわがせている四次元の大泥棒ブンの生みの親、小説家のフン先生のお宅にきております。(ト、司会者、フン先生の家を見まわし)ごらんのとおりのあばら家でございます。読者にごまをすらない小説家は、こんなボロ家にしか住めないのであります。(司会者はこんな失礼なことをしゃべりながら、猫の額ほどの庭にまわって、書斎で執筆中のフン先生になれなれしく声をかける)こりゃまた、フン先生、いつもほんとにお世話になります」  ここでカメラは切りかわって、書斎の中にすえられたカメラになる。フン先生は気がつかないふりをして、なにやら原稿用紙に書きなぐっているが、これは「仕事の鬼フン先生」というイメージをだすために、ディレクターがつけた演技である。司会者は、それまで隠しもっていた大トンカチをとりだし、親し気にやさし気にフン先生の後頭部をコンコン。フン先生は大げさにおどろいて、 フン 「やあ、いらっしゃい」 司会者 「フン先生、小説『ブン』をおかきになった机はこれですか?」 フン 「そうです」 司会者 「ひどい机ですね」 フン 「小学一年のときから使っとるのだ」 司会者 「(カメラに向かって感激して叫ぶ)視聴者のみなさん、ここにひとつの真理があります。ボロ机でも傑作小説はモノにできるのであります。(フン先生に向かい)これが原稿用紙ですか」 フン 「そのとおり」 司会者 「なんですか、これは。『ちり紙一束わずかの五円! よろずや』チラシですね、先生、新聞にはさまってくる折込み広告じゃありませんか」 フン 「左様。付近の家から折込み広告をもらってきて、裏の、印刷されていないところにラーメンの割ばしを定規がわりにして線を引くのだ。それがわがはい手製の原稿用紙じゃ。小説を書くよりもどうしたら上手に線が引けるかの方に神経を使うね」 司会者 「(カメラに向かい昂奮して)みなさん! ここにもうひとつの真理があります。折込み広告の裏側は、小説を書くのに最適です。小説は人生の裏側のことを扱うのですから、裏側に書くのがよいのでしょう。(フン先生に向かい)では先生、次に先生のおやすみになる布団を拝見しましょうか」  司会者が押入れの戸をあけた。すると押入れから気を失ったひとりの男がころげだして来た。思わぬハプニング。カメラマンは気をきかせてころげだした男のアップをとる。  するとこれはどうなっているのであろうか、押入れからころげだした男は司会者と瓜ふたつ。そっくりなのだ。  これは打ち合わせにないことなので、フン先生はうろたえて、司会者にきく。 フン 「きみも司会者! で、この気を失っておる男も司会者! するとどっちかがにせものということになるが……」  司会者はカメラに向かってにやりと笑った。そしてペロンと面の皮をはいだ。 フン 「あっ! おまえはブンではないか!」 ブン 「フン先生、おひさしぶりでございます」  スタッフの人たちはこおどりしてよろこんだ。ブンがテレビの画面に出てくれれば視聴率はパーセント、確実にとれるからだ。残りの1パーセントは、おそらく日本中の人たちがテレビにかじりついているすきに、なにかよからぬことをしでかしているブンの同業者たちであろうか。 フン 「ねェ、ブン」 ブン 「なんですか、先生?」 フン 「おまえはだいぶはでにあばれまわっているようだが、もう充分だとは思わないかね。そろそろ、生原稿の中にもどったらどうか?」 ブン 「まだまだ」 フン 「世間のひとたちは、おまえの痛快なあばれぶりに、いまのところは拍手喝采を送ってくれている。だが、きっとそのうちにきらわれるようになるよ」 ブン 「さあ、それはどうかしら。(ブンはミニスカートのかわいい女の子になった)それに、わたしだけ生原稿にもどっても、だめよ」 フン 「そりゃどういう意味かね?」 ブン 「小説『ブン』一冊から、別のブンがひとりずつ、この世界にとびだしているのよ。アサヒ書店から発行された小説『ブン』は初版一万部、二版一万部、三版十万部でしめて十二万部。すると……」 フン 「十二万人のブンがこの世にとびだすというのかね」 ブン 「そうよ」 フン 「なんというおそろしいことじゃろう。おまえひとりでも、もてあましているのに、おまえのようなやつが十二万人とは!」  そのとき、押入れからころがり出たほんものの司会者が正気にかえった。そして、正気にかえった拍子にうろたえて、フン先生とブンの間にわってはいると、 司会者 「さあ! それではまいりましょう! ジャンケンで負けた方は身につけているものをぬいで競売にするのです。ハイ! 音楽どうぞ!」  ブンはおもしろがって、あッという間に放送局を往復、あの有名な「裏番組をぶっとばせ!」のジャンケンポン用のお囃子音楽のテープを持ってきて、流した。 アウト! セーフ! ヨヨイのヨイ!  フン先生はチョキ、ブンはパーだった。ブンはミニスカートとセーターをぱっと脱いだ。ブンはまるはだかであった。(読者諸君! このページに「のりしろ」がある。大急ぎでこのページを貼りつけてしまおう。理由は……おわかりでしょう?)  司会者はミニスカートとセーターの叩き売りをはじめた。空中からとりだしたバス・タオルで身体をかくしたブンに、司会者がきく。 司会者 「これ、いくらでした?」 ブン 「無料よ」  司会者は、右手でフン先生の書斎のたたみをポン! と叩いた。モウモウとホコリが舞い上がり、たたみのへりにかくれていた虱が宙にとびあがる。 司会者 「ゴホンゴホンゴホゴホ……かわいそうな母子家庭のために、このミニスカートとセーターを無料で買ってください!……まてよ、無料じゃまずいな。一万円! でどうだ」  そのとき、縁側からクサキサンスケ長官がはいって来た。 長官 「買った!」 司会者 「こりゃまた警察長官! あなたがお召しになるのですか?」 長官 「ばかもん! 証拠品にするのだ」  長官は内ぶところからピストルを抜きだして、ピタッとブンにねらいをさだめた。 長官 「四次元の泥棒ブン! 盗みによって世の中をさわがせた罪は重い。逮捕する!」  ハプニングの連続である。VTR車のなかのディレクターは、床をはいずりまわってよろこぶ。波瀾万丈の大番組だ。局長から特別賞与がごっそり出るにちがいない。(ところがじっさいは、かえって給料をへらされてしまった。ハプニングの連続で大よろこびをしていたものだから、コマーシャルを入れるのを忘れていたのである)  さて、クサキサンスケ長官とブンとのにらみあいはつづく。ブンは長官を見ながらフン先生にこっそり何事かささやいた。これはテレビの視聴者はもちろん、その場に居合わせた長官にも司会者にも聞こえなかったのだが、読者のみなさんにはお教えしておこう。ブンはこうささやいたのだった。 「先生、相談したいことがあるんです。明日の正午、ホテル・ノークラのグリルにおいでくださいな」  そして、ぱっ! といなくなってしまった。長官はあわててピストルの引金をひいたが、庭の土の中のモグラ三匹に重傷をおわせただけである。  ディレクターから司会者にサインがきた。 「時間がない! おわりの挨拶!」 司会者 「えー、今夜は、ただいま話題の小説家フン先生のお宅から『フン先生をかこんで』と題しまして、特別番組をお送りいたしました」  司会者が頭をさげるのを合図に、書斎のフン先生のまわりに踊り子たちがとびだして、歌い踊る。もっとも、踊っているうちに、床の根太がくさっていたのだろう、踊り子たちは全員床を踏みぬいて、床の下におっこった。  このとき、踊り子がうたった後テーマであるが、作詞家がぼんくらで締切りに間に合わず、仕方がないので、スキャットでごまかした。スキャットとは即興的にうたわれる歌詞のない唱法で、楽器によるジャズのフレーズを声でまねしたものであるが、そのときの後テーマを参考のために書いておこう。 エー イー ガフ ムー ディボーギフタッダー リッビッディ ディデューディ オー スキッツ スカッツ スクッツ ドゥー ドゥドゥドゥーダッ トゥラリユア パララッツァー! ウビウビダ ウビウビダ ウビウビが ウビウビにきて ウビうれず ウビウビかえる ウビウビのコエ!  これで特別番組「フン先生をかこんで」はおしまい。  一方、そのころ、ニューヨークの国連ビルでは「四次元の大泥棒ブン対策理事会」が開かれていた。議長はソヴィエト代表イワン・イワンコッチャナイゼヴィッチ・イクライッテモダメダネフスキイ理事。 「理事のみなしゃん。四次元の大泥棒ブンに対する策はございましぇんか?」  タンガニーカのドンドコ・ボコンボコ理事が立つ。 「わたくしはタンガニーカのトカトンコ大学で物理学を専攻いたしましたからよくわかるのでありますが、ブンがほんとうに四次元の人間なら、われわれ三次元の人間にはとうてい太刀打ちはできません。したがって対策はありません」  かかる重要問題をわりとかるく断定したので、イワン・イワンコッチャナイゼヴィッチ・イクライッテモダメダネフスキイ議長は、いや気がさしたが、始めたばかりで閉会にするわけにはいかず、 「ブンはほんとうに四次元の人間だろうか?どうであろう?」  ふたたびドンドコ・ボコンボコ理事が立った。 「ブンは同一時間に世界各地はもとより月面にまで出現しております。ということは、ブンは、われわれ三次元の人間には知ることのできない時間や空間の断層、ゆがみ、ふくらみ、エアポケット、かくしどころ、おとしあな、ほらあな、トンネル、あなぐらなどを知っており、それを上手に利用していると考えられます。時空の断層を知り、それを利用できるということは、四次元人間の特徴でありますから、ブンはあきらかに四次元の人間であります」 「すごくよくわかった……ようなぜんぜんわからないような意見でしゅね。ほかになにかよい意見はありましぇんか」 「ハイ! ハイハイハイ!」  幼稚園の生徒みたいにうるさくさけびながら手を挙げたのは、日本代表理事如何様騙之助氏。 「今後、ブンが起こすいたずらや盗みの行為を、ブン現象と名付けてはどうですか?」  イワン・イワンコッチャナイゼヴィッチ・イクライッテモダメダネフスキイ議長は、ドンと机を叩いて感心した。 「じつにすんばらしのアイデアではありましぇんか」  つられてあちこちから賛成の声。 「きまりました! ただいまより、ブンが起こすいたずらや盗みの行為をブン現象とよぶことにいたしましゅ。では、よい結論の出たところで本日は閉会、ブン対策に関するくわしい討議は、後日、日を改めて行ないまァしゅ」 「四次元の大泥棒ブン対策理事会」の第一回理事会は、こうして多くの成果をあげて、終わった。 第四章 モノからココロへ ブンは歩いていったよ しっかりした足どりで 支流から本流へ 葉っぱから幹へ 表面から本質へ ブンは歩いていったよ しっかりした足どりで  テレビの特別番組「フン先生をかこんで」の放送のあったあくる日の正午、フン先生はホテル・ノークラのグリルにすわっていた。 「昨夜、放送の最中にブンのやつめ、相談ごとがあるから、ここに来てくれと、ささやいて消えたが、ほんとうにくるかしらん」  フン先生はそーっとグリルのなかをぐるりとみまわした。グリルは意外にすいていた。フン先生のテーブルの隣に、数人の上品そうなご婦人方が数人、ペチャクチャおしゃべりしているだけだった。ボーイ長が床の上をすべるようにやってきた。 「いらっしゃいませ。小説家のフン先生でございますね。昨夜のテレビ、拝見いたしました。先生の、あの折込み広告利用の原稿用紙には感動いたしました。それで先生、なにをおめしあがりになりますか?」  フン先生はぐっとつまってしまった。 「インスタントラーメン……」 「はあ?」 「なんて、ここじゃ下品なたべものなんだろうな。こりゃ困ったわい」  先生はつぶやいた。 「わがはいは、冷飯に味噌汁ぶっかけたごはんか、インスタントラーメンしか知らん。このホテルにはどっちもないだろうな」  ボーイ長がたすけ舟をだした。 「本日の特選料理はいかがでしょう?」 「トクセン? うむ、トクセンならよいな。なんだかしらんがトクセンたのむ」  ボーイ長は深々とおじぎをして去った。隣のテーブルでは上品そうなご婦人がたがフン先生の噂をしているようである。 「あれが、話題のフン先生ざますか?」 「らしゅうございますわね」 「汚らしい方ですこと」 「小説『ブン』が売れるまでは乞食同然のおくらしだったとか」 「オホホ。じゃ、急にお金がはいったので、このような一流ホテルへ……?」 「らしゅうざますわね」 「ムリしていらっしゃるみたいざます」 「ムリはいけませんざます」 「やはり人間には生まれながらの気品というものがございませんと……」 「サイザマス」 「気品がないと家の格式は保てません。ザンショ?」 「ザンス!」  ご婦人がたは昂奮して、次のような歌をうたいはじめた、とても上品に——。 サイザーンス サイザンス おミュージックはサンサーンス ルネッサンスにサイエンス ファイヤンスにグッドセンス 教養高きホモサピエンス ドレスはパリのハイセンス 家具は柾目の桐ダンス 普段の帯は緞子でザンス 貧すりゃ鈍す 鈍すりゃ金子がほしくなる ダンスは床しいフォークダンス 旦那は東大出ておりやンス なによりきらいなナーンセンス 家庭のしあわせここに存す サイザーンス サイザンス!  ぶどう酒かなんかきこしめしているとみえて、最後など大いに気勢があがり、スープ皿をスプーンで叩いた方もあったようである。ボーイ長がまた床をすべるようにしてやってきた。 「あのう、奥様がた、奥様がたはイギリス王室風キドニーパイを御注文でございましたね」 「サイザンス、サイザンス!」 「ざんねんでございます。キドニーパイはできなくなりました」 「おや、ザンネンザンス」 「でも、かわりにきっとよろこんでいただけるお料理を用意してまいりました」 「ナンザンショ?」 「カンショ」 「カンショ?」 「おサツ」 「おサツ?」 「しもじものことばで申しますと『おやきいも』で……」  ご婦人たちはぷーっとふくれた。  そのとき、ボーイ長が右手を宙にさしのべて、ひょいと振った。奇妙な手つきだった。ご婦人たちの頭からなにか盗みだすような手つき! とたんに上品だったご婦人がたの態度が、がらっとかわってしまったのである。 「ちょいとあんた! やきいもだってさ」 「ケケケケ、あたしゃおいもちゃんだいすき!」 「ボーイ長のにいさん、やきいもどこにあるんだい?」 「あちら。キッチンの方に用意してございます」 「キッチン? 気取るんじゃないよ。このニヤケ男 キッチンなんて横文字使うな。台所でいいじゃないか。おい! ちょいと、みんな台所におしかけようじゃん?」 「いこう! いこう!」  ご婦人方は、どたどたと、台所になだれこんだ。フン先生はボーイ長にいった。 「おまえ……ブンだな?」  ボーイ長はにやっと笑って、 「おみごと! 先生、よく見破りましたな。わたしの変装を見破ったのは先生がはじめてですぞ」 「妙な手つきをしたからわかったのさ。おまえ、いまのご婦人方から何を盗んだのだ?」 「虚栄です。虚栄、見栄、気取り……人間て、おかしなものが好きなのね」  ブンは特別放送のときのような、ミニスカートのかわいい女の子になっていた。むこうからほんもののボーイ長が床をすべってやってきた。 「いつの間にか……よくいらっしゃいました、お嬢さま。ご注文は?」  かわいい女の子になったブンは、アイスクリームを注文した。 「それで、ブン、相談とはなんだ?」 「このごろ、わたし、こう思うようになったんです。形のあるものを盗むのはつまらないって」 「そうだろう、そうだろう。盗みなんてくだらん。つまらん。よしなさい。わがはいの生原稿にもどっておいで」 「ちがうのよ。わたしね、これからすこし方針をかえようと思うの。こんどはことばとか音楽とか人間の見栄とか虚栄心とか、形のないものを盗んでみようかと思うの」  フン先生はしばらく考えこんでいた。それから首をふって、 「わからん。おまえはなんのために盗むのだ」 「わたしは泥棒よ。泥棒と生まれたのなら、どうせのことに人間のいちばん大切なものを盗みたいわ。人間がいちばん大切にしているもの——それを盗めたら、泥棒は、よしてもいいと思っているの。人間のいちばん大切にしているものってなんですか、先生」 「わからん」  フン先生は悲しそうにいった。 「わしの一生は、人間にとってなにがもっとも大切か、つきとめることだった。しかし、人生、そのなかばをすぎているのに、それがまだわからんのだ」 「歴史を盗んだら人間はどうなるかしら?」 「よしなさい。世界中の人間が団体で記憶喪失症になってしまうだけじゃ」 「人間に歴史なんかあってもしかたがないと思わない? だって、人間がほんとうに歴史からなにかを学んでいるなら、一度やった失敗は二度と繰り返さないはずよ。ところが人間は、たとえば、しょうこりもなく戦争などを繰り返しているわ。人間には歴史なんて宝のもちぐされなのよ。いずれにしても、わたし、すこしやりかたをかえてみるわ」 「ブン! いくのはよしなさい。わがはいは急に世間に責任を感じてきた。これ以上おまえをほうっておくと、世の混乱はその極に達する。いかん、行ってはいかん。原稿の中にもどりなさい!」  ミニスカートのブンはフン先生の手を払いのけて立ち上がると、フン先生の頭の上に手をかざしてひらひらとふった。 「フン先生、手はじめに先生の歴史を盗んでみるわ」  そして、ブンの姿も消えた。そこへボーイ長が特選料理のコールド・クリームスープとアイスクリームを捧げてやってきた。 「おまたせいたしました、フン先生。おや、お連れさまはどちらへ?」  フン先生はあどけない笑顔でボーイ長を見上げた。 「お連れちゃまってだれのこと? それにあんただれ? 幼稚園の先生? わァ、アイスクリームだ! いいな、いいな、ぼく、アイスクリームだいすき」  フン先生は記憶を盗まれてしまっていたのである。わずかに残った記憶は、はるかむかしの幼稚園時代の記憶だけ。だからフン先生には、ホテル・ノークラのグリルが幼稚園の食堂のように思え、ボーイ長が先生のように思え、ちょうどそのときはいってきたお客を友だちのように思いこんだ。そしてお客のあたまにスープをひっかけた。  フン先生は、警察に収容された。  クサキサンスケ長官がじきじきにフン先生を尋問した。 「フン君、あなたはなぜ記憶を喪失したのですか?」  記憶喪失症患者に、こんなことをきいたって無駄である。 「カーゴメカゴメ、カーゴノナカノトリハ」  フン先生は無心にお遊戯をしている。 「こりゃだめじゃ。てんではなしにならん」  クサキ長官は匙をなげた。 「わたしはフン君にきいておきたいことがたくさんあったのだ。小説『ブン』を書いた動機はなにか。ブンとはいったいどういう男か。ブンの弱味はどこにあるのか。ぜひ、きいておきたかった。だが、この有様では当分だめだな。わたしともあろうものが、すこし出おくれたわい」  クサキ長官は秘書の婦人警官を呼んだ。 「フン君を家に帰しなさい。優秀な精神医と警官をひとり、フン君につけるのを忘れるな。フン君が記憶を回復したらすぐわたしに知らせるように」  秘書がフン先生を連れ出すと、すぐ首相との直通電話が鳴った。 「はっ! クサキサンスケ警察長官であります。首相閣下はいつもご機嫌うるわしく……」  だが、首相の声はあまりにもご機嫌うるわしすぎた。首相は舌っ足らずの甘ったれた声でこういったのである。 「ケッ! クサキのサンちゃんか。ぼくんちへ遊びにこいよ。ぼくんちでメンコしないか」  サンスケ長官はきいてハラハラと落涙した。  ああ! 首相閣下までブンのために……!  つづいて官房長官の声が、がん! と飛びこんできた。 「クサキくん! すべてきみの責任だよ。きみが手をこまねいてブンとかいうやつをほうっておくから、つけあがってこんなことまでやってしまうんだ。いいかね、クサキくん、三日間の猶予をやる。三日のうちにブンを逮捕しろ! できなきゃ、きみはくびだぞ!」 「官房長官! ベストをつくしますが、しかし、やつを逮捕できるかどうかは神のみぞ知るでありまして……、悪魔ででもなきゃ、とても確実にはやつを逮捕はできませんよ」 「神だの悪魔だのと、なにをいっておるのかきみは。悪魔でなきゃ逮捕できないなら、悪魔をやとえ!」 「いや、悪魔というのはもののたとえでして……」 「とにかく、すべてを三日間で終わらせよ」  その夜、クサキ長官は、都内某所で、ヒッピー族の親玉のようなへんてこりんな男とあっていた。赤、青、黄、紫、緑……いろんな色のビー玉の数珠みたいなやつを首からさげ、分厚いメガネをかけて、水煙管かなんかで煙草をふかしている男だ。 「おまえが呼び屋だな?」  長官がきいた。 「ハイ。しがない呼び屋です。今年は、インドから火吹き男というのを呼びました。ガソリンをゴクゴクのんで、三メートルもの焔を吐きだすってふれこみだったんですが、ところがこいつがとんだくわせもので、ガソリンをのむかわりに酒ばかりのみやがって、吹くものといったらホラばかりなんですからねえ。大損しましたよ。去年はイランの人間ポンプってのを呼びました。釘でもガラスでもなんでもくっちまうってんです。こいつはほんものでしたが、こん畜生、三度のメシを十三度もくいやがって、やつの食費分だけ損しました。来年は、ヘルシンキから屁こき男を呼ぼうと思っとりますがね。こいつは、オーケストラと掛け合いで屁をひるそうですな。ウイーン・フィルハーモニーとも協演したそうです。曲は、自作の「ヘ短調イモバラ」。こいつの十八番は屁をひりながら、お尻の穴からプワーッと白い粉を吹きあげるんだそうで……あらかじめ龍角散をのんでおくらしいんですが……」 「ばかもの! わしはおまえが悪魔の呼び屋だろうといっとるのだ」 「これはこれは、秘密のはずなのによくごぞんじで……」 「わしは警察長官だ。それぐらいのことはとっくに知っとるわい」  ヒッピー風の呼び屋は、首飾りの青いビー玉より青くなった。 「これは失礼しました。あのう、わたくしは悪魔を呼ぶことについては正式な許可をいただいておりません。というのは、わたくしが正式な届を出していないせいですが、営業停止になるのでしょうか」 「それは事と次第によるぞ」 「と、申しますと……?」 「わしのために悪魔を呼びだしてくれれば、営業停止にはしない。どうだな?」  悪魔の呼び屋はにっこりしていった。 「閣下は、ちょうどよいところへおいでになりました。いま真夜中の十二時五分前。悪魔を呼びだせるのは日に一回、真夜中の十二時と決まっておりますので」 「註釈はどうでもいいんじゃよ。早く呼びだせ。貴様の時計は三分ほどおくれとるぞ。早くしないと十二時すぎてしまうではないか」 「ヘエ、おそれいります。ときに閣下、悪魔の呼びだし方にはいくつか方法があるんですが、どうなさいます? 松竹梅と三段階ございまして、呼びだし方によって、悪魔の階級もかわってまいります」 「金はかかってもよい。役に立つ悪魔がほしいのだ」 「よろしゅうございます。最上等のスペイン式でまいりましょう」  悪魔の呼び屋は、汚い三面鏡をふたつひっぱりだしてきた。そして、三面鏡の鏡をふたつむかいあわせて、平行にならべた。 「ほら。一方の鏡のなかにもう一方の鏡がうつり、そのなかにまた鏡がうつり……というぐあいにずーっとどこまでも無限につづく奥深い廊下ができるでしょう。この鏡の廊下のずーっとはて、ずーっとむこうから——」 「悪魔がくるのだな?」 「ハイ。左様で。イッヒッヒッヒー」  古ぼけた柱時計の長針と短針がぴったり重なった。  ボーン! ボーン! ボーン!  時計が陰気に鳴りはじめた。悪魔の呼び屋が、長官の耳に煙草くさい息を吹きかけてささやいた。 「あの柱時計が十二、鳴り終わりますと、悪魔ちゃんがやってきますよ」  ボーン! ボーン! ボーン! ……。  柱時計が十二打ち終わったとき、長官の前に黒いタイツに、ピンク色のシッポのかわいい悪魔が立っていた。悪魔はムズムズするような声でいった。 「こんばんは」 「こちら警察長官。あんたに用事があるんだってさ」  呼び屋がいうと、悪魔はばかみたいに長いマツゲをパチパチとしばたたいて、 「あなた、長官? はじめまして。あーら、いやだ。なにふるえていらっしゃるの? あなた、悪魔にあうのははじめてみたいね。じゃあ、しょうがないわ。こわがるのもむりはないわね。えーと、はじめに、ビジネスの相談をいたしましょう」 「ビジネス?」 「ええ。わたし、あなたのおっしゃることはなんでもいたしますわ。そのかわり、わたしはあなたの魂をいただきます。どうかしら、こういう条件で?」 「魂ねェ。いいだろう。別に魂なんていままで大切だと思ったこともないし、あってよかったと思ったこともない」 「ではきまりました。で、わたし、なにをさしあげればよろしいの? お金? お金なら三百億円までお貸しいたしますわよ。もちろん、無利息、無担保の無催促」 「金なんぞいまのところほしくはない」 「じゃ出世? 下は乞食の親方から上は大統領まで、いろいろございます」 「出世でもない。なにしろ、わしは警察官としては最高の地位におる」 「では、長生き? 二百歳までは保証しますわ」 「でもないのだ」  悪魔はトントンと床を蹴ってじれったそうにたずねた。 「じゃあ、わたしになにをしろ、とおっしゃるの?」 「ブンという大泥棒がおるのだ。そいつをやっつけてほしい」 「なーんだ、そんなことなの。いいわ、引きうけました。えーと、ピストル貸して」 「ピストル?」  長官は悪魔にピストルを手わたした。 「しかし、ピストルをどうするのかね?」 「もちろん、きまってるじゃない。これでブンとかいうやつをドン!」  長官はがっかりした。 「あんた、悪魔だろう。もっと、この、いかにも悪魔悪魔した武器はないのかね」  悪魔は弾倉の弾丸をたしかめながらいった。 「武器は人間の方がずーっと進歩してますの。小はピストルから大は水爆まで、すごい威力! 人間の知恵と努力にはいつも学ばせられますわ」 「なるほど」  ほめられて、長官はすっかりうれしくなってしまった。 「ねえ、悪魔くん、きみたちも大昔からずいぶん、いっしょうけんめいになって、人間の魂を手に入れようとしているようじゃないか。その根気にはつくづく頭がさがるよ。しかし、どうして、そんなに人間の魂にこだわるのだい?」 「そりゃ、人の魂をひとつでもよけいに手に入れれば、その分だけ全悪魔の夢の実現する日が近づくからよ」 「全悪魔の夢? そいつはぜひ、ききたいなあ。どうかね、はなしてくれんかね」  さすがに警察長官だけあって、尋問上手、聞き上手である。悪魔は、うっとりとしていった。 「みんなで、ピクニックをたのしむの」  長官と呼び屋は、ピクニックと聞いて驚いた。人間の魂を手に入れることと、悪魔のピクニックと、いったいどういう関係があるのか。悪魔は、ふたりにきいた。 「人間から魂をとりあげたら、人間はどうなると思う?」  ふたりとも、そういう問題について、これまで、ついに一度も考えたことはなかったので、顔を見合わせて首をひねった。そこで悪魔は、チャーミングな声で、つぎのようなボサノバ調の歌をうたって説明してくれたのである。 魂とりあげりゃ 人は人に勝ちたがる 「となりの息子は 秀才だけど うちの息子は 天才だ」 親の欲目がはじまりで 「一流校にはいりなさい」 「一流会社にはいりなさい」 当の息子は溜息  ハァー ハァー それを見物するのよ ステキなドレスに着飾って シッポにリボンを飾ってネ それを見物するのよ サンドイッチにコーヒー持って ピクニック気分でネ—— 魂とりあげりゃ 人は人を憎みだす ワンパク坊主と キカン坊が 喧嘩をしたのが はじまりで 家と家とが憎みあい 町と町とがいがみあい 国と国とがもめだした 最後に地球は 焼野原  ドカドン! ドカドン! 人間がひとりもいない まっくろこげの焼野原 そここそは悪魔の世界 悪魔の夢のユートピア 悪魔は一匹のこらず シッポやスカートひるがえし コウモリやヤモリと遊ぶの ヘビやトカゲとキスするの 人間のシャレコウベで サッカーするんだわ いつの日か きっと やってくる ああ! 悪魔の美しい未来!  かわいい悪魔は、うたいながら涙を流していた。悪魔は悪魔なりに、自分たちのあるべき未来の世界像を持っているらしい。クサキサンスケ長官は、すこし、こわくなってきた。 「わしらのシャレコウベを悪魔がけっとばす? いったいどんな音がするのかしらん?」 第五章 たくさんのブン 敵は大勢 味方はひとり ブンもさすがに 青息吐一流ホテル、ホテル・ノークラのボーイ長に変装し、フン先生の前に出現して以来、ブンのやり口に、すこしばかり、これまでとちがったところがみえてきた。  まず、ブンの仕業だと思われる奇ッ怪な事件の数が、それまでの十二万倍以上にふえた。おそらく、アサヒ書店の発行した十二万部の小説『ブン』のなかから、ブンたちがいっせいにとびだしたためであろう。  奇ッ怪な事件の内容も、また、大きくかわってきていた。  たとえばパリ。  パリのオペラ座では、世界的コロラチュラ・ソプラノ歌手カラスキ・カラスコ嬢がリサイタルを開いていたが、アンコールの「カルメン」のハバネラを歌っているさいちゅうに、ふっと声が出なくなってしまったのである。会話のときは、ちゃんと声がでるのに、歌おうとすると声が出ない。絶望して彼女はホテルにもどったが、ホテルの自室の壁には、こんなはりがみがしてあった。 ブン一○○○九八号只今参上。 あなたのご自慢の美声、しばらく 保管いたします。あしからず  世界的名女声歌手も、声が出なくなればただのおばさんである。  彼女はホテルをひきはらって、家にとじこもってしまった。  ドイツのゲッチンゲン大学の哲学教室では、哲学科主任教授であるカルル・ヤッパス博士が、いつものように威厳にあふれた態度で講義中であった。 「……哲学の任務とはなにか? 単純なことがらを、複雑怪奇にすることがその任務である。人生は、喰って糞して寝て起きて死んで行く、ただそれだけのことである。しかし、ただそれだけでは、いかにもつまらん。たとえばである」  ヤッパス博士はヒゲをしごいた。 「ゆでたままのジャガイモを、皿にひとつポコンとのっけて出されたときと、そのジャガイモをすりつぶし、グリンピースや、角切りにしたにんじんをまぜて、体裁よく出されたときとでは、われわれの食欲がちがう。だれだって、ポコンとジャガイモをのっけた皿の方を敬遠するにちがいない。あまり簡単すぎて、ちっともおいしそうに見えないからである」  ヤッパス博士は、またもやヒゲをしごいた。八文字にひろがった偉そうなヒゲ。博士はこのヒゲが自慢なのである。というより、このヒゲが博士の心のよりどころなのであった。偉そうなヒゲをしごいていると、自分が、骨のズイから、偉そうな大哲学者になったような気がするのであった。 「それと同じように、人生もあまり簡単すぎてはつまらない。そこで哲学は『人生は不可解なり』とか『人生は謎である』とか、もっともらしく、且つ、廻りくどく、わざと難しい用語を用いて、人生を複雑怪奇なものに仕立て上げるのである。いわば、一本のまっすぐな糸を、こねてまるめてこんがらからせるわけだ。そうするとはじめて人生は生きるに価するものとなる 諸君よ、ものごとを難しく考えなさい。諸君の明晰なあたまをこんがらからせてしまいなさい。それが哲学するということなのだ」  とたんに、教室中にどっと笑い声が上がった。ヤッパス主任教授はきびしくたしなめた。 「諸君! 哲学するものは笑ってはいかん。あくまでもきびしい顔をし、額にシワをよせること」  笑い声が続いている。こんなことは生まれてはじめてである。そこで教授は、いかめしい手つきでヒゲをなでて……いや、なでることはできなかった。ヒゲはなかったのである。ヤッパス教授はうろたえた。自分でも意外なほど、自信がなくなってしまった。教授はうつむいて、こそこそと声を出した。 「あのう、いままでのぜんぶまちがい。ぼくは哲学のテの字も知らないの。とても、みなさんの前に出て、しゃべるような学問もしておりません。みなさん……さようなら。ぼくは故郷のババリアへ帰って、先祖伝来のタンボを耕し、百姓をします。いままでいろいろ偉そうなこといって、ごめんね」  いま、水のみ百姓のヤッパスは、ババリアのジャガイモ畑でイモを掘っている。朝な夕なに、ジャガイモのふかしたやつを一個ポコンと皿にのっけて、塩をふって、うまそうにたべながら……。 「短いトンネルをすぎるとよそぐにだった」という文章ではじまる名作「よそぐに」を書いたカワマタ先生は、スランプにおちいっていた。どうしても、かつてのような流れるがごとき名文を、ペンの先から、ひねりだすことができないのである。無理をすると、 「時に、わたしが こすと 短い トンネルを、それは、であった よそぐに」  などという英語の直訳体の、奇怪きわまりない文章になってしまうのであった。 「ひょっとすると……」  カワマタ先生は、トンビのような目で宙をみすえて考えた。 「ブンの仕業かもしれぬ。ブンがわしの文体や文章を盗んだにちがいない」  先生は、出版社の編集者を怒鳴りつけるので有名だったが、いまでは、編集者がこようものなら、 「いらっしゃいませ。わざわざのおいで、不肖カワマタ、光栄至極でございます」  と平伏し、お茶なども自ら、お入れになるそうである。  イギリスのバーミンガムにあるウイルソン・グリーン刑務所、日本の北海道網走市網走番外地網走刑務所、アメリカのカリフォルニアにあるシンシン刑務所などをはじめとする、全世界のあらゆる刑務所で妙なことが同時に起こった。みなさんのなかに、刑務所のくさい飯をくった経験のあるひとがいると、はなしは楽なのだが、刑務所には牢名主という名のボスがいる。  目付あくまでもの凄く、両頬に傷痕が二、三本上下に走り、刑務所に出たりはいったりしているうちに、所内規則や所内地理にも通じ、天井裏のネズミのくせから、床をはいずりまわるゴキブリのニックネームまで知っており、正月になると、ゴキブリ一同から年賀状が舞いこみ、盆暮にはネズミからお中元やお歳暮が届き、あくまで陰険で残忍、わるいことに腕力は、そのへんの関取衆がはだしで逃げだすほどの強力さ。いわば、スケールのでかいいじめっ子だが、こういう連中は、「おれは殺人犯で三十年の懲役よ」とか「強盗にしくじって七年の刑よ。なんだ、七年かと、おれを甘くみちゃいけねェよ。これでも、前科十三犯だぜ」とか、ほざいて、そりゃもういばるのである。  新入りの気の弱い凶悪犯をおどして、朝飯のタクアンをかつあげるなど朝飯前。——朝飯につくタクアンをなぜ朝飯前にかつあげることができるか? このへんが日本語のふしぎなところである——夕飯のアジの干ものを巻きあげる、寝るときは同じ房のなかの連中からせんべいぶとんをとりあげて、そいつを山のようにつみあげて寝る。手がつけられない。  ところが、ある日のある時刻を境にして、世界中の牢名主どもが、ころっと記憶をなくしてしまったのである。連中は一様にあどけない、おどおどした顔つきとなり、房の隅でにこにこしながら、 「わたしは だあれ だれでしょね」  とうたいながら二度と「おれは殺人犯で」だの「前科十三犯のこのおれさまは」だのとすごむことはなくなったのである。  このにわかの異変でいちばん困ったのは、じつは刑務所の看守や、刑務所長たちであって、この異変の一週間後に、東京の武道館で行なわれた世界刑務所長会議で、ある刑務所長は、こう訴えている。 「これらの所内のボスどもは、わたくしどものスパイとしてじつに有能でありました。煙草一本、梅干一個で、情報を売ってくれていたのであります。彼らがこんなことになってしまうとこの先、わたくしどもは、どんな方法で、所内の動静をつかめばよろしいのか。囚人どもが所内で暴動や、集団脱走を計画しても、もうわたくしどもには、それを事前に知る方法はないのであります。暴動や集団脱走が起これば、わたくしどもはすぐさま、クビであります。この年で、妻子をかかえ、あの天国のような刑務所からほうりだされたのでは、もう一家心中か強盗でもするほかはありません。心中はいやですから、可能性は強盗にあります。となりますと、ひょっとしたら将来、わたくしども自身が刑務所にはいることも考えられますね。……となると、いまから刑務所のなかを住みよくしておく必要がありますね」  その刑務所長はあわてて演壇をかけおり、退場しながら叫んだ。 「わたくし、こうしちゃいられません。すぐ刑務所にもどって、刑務所を改造いたします。近い将来、所長をクビになって強盗をし、つかまって刑務所に叩きこまれたときの用意のためにね。まず、各房のなかにある便器をかこってちゃんとした便所をつくりましょう。わたくし、お風呂がすきですから、各房に風呂場をつけ、テレビをつけ……、おやつの支給もはじめます。つまり、ちょっとしたホテル並みにバストイレテレビおやつつきってやつです」  こうして一か月後、世界中の刑務所は、まるで楽園のようになったのである。  また、全世界の病院でもある出来事がいっせいに起こった。病院長とか医長とかいうと、病人には神様に等しい存在であるが、彼らとて人の子である。寝たい、たべたい、いばりたい、始終、こう思っている。思っているだけではない。じっさいによく寝、よくたべ、よくいばっている。  みなさんのなかに、病院生活の経験者があると話しやすいのだが、一週間に一度、病院には「病院長総回診」という行事がある。クリーニングからかえってきたばかりのパリッと糊のきいた診察衣を着た院長先生が、両脇に外科医長、それから総看護婦長をひきつれ、うしろに、医師、医局のインターンたちをひきしたがえ、病室という病室をひとまわりして、 「うむ、だいぶよくなっとる。わしの指示がよかったのだ。わしはじつに適切な処置をするなあ」 「うむ、だいぶ病気が進んどるが、いよいよになったら、わしが手術をしてやろう」 「うむ。治療費をためてはいかんよ」  と、このように「わしが」「わしが」と売りこみ、いばりちらす行事であると思えばよかろう。  ところが世界中の病院長がある朝とつぜん、いっせいに、この「わし」という代名詞のあることを忘れてしまったのである。わしという考え方をしなくなれば、きみもかれもなくなる。つまり病人の顔がみな同じにみえてくる。区別は病気が重いか軽いかだけ。そこで金がなくても病気が重ければすぐ診てもらえることになる。いくら金があっても病気が軽ければあとまわしである。これはじつに結構な異変ではあるまいか。  新幹線ひかり号の十号車に、代議士が乗っていた。名は伊井艶太郎。名前のとおり、頭はつるりとはげわたり、いいつやであった。この先生は代議士バッジを手に入れたとたん、やたらにいばるようになった。毎朝、ベッドからとび起きると、鏡にむかっていばり方の研究するほどの念の入れ方であった。今朝も議員宿舎の自室の鏡に向かって、 「あーん!」「おっほん!」「えっへん!」「ふむふむ」「あーん、なるほど」  腕を組んだり、そっぽを向いたり、片手を腰にあてたり、アメリカ製のみがき粉であたまをみがいていちだんとつやを出したり、そっくりかえれるだけそっくりかえって、うしろにひっくりかえったりしてきたところだったのである。  ところが、ひかり号が熱海のトンネルを通りすぎたとき、先生は、身体のなかをなにものかがやはり通りすぎたような軽い、しかしとても快適なショックを感じたのである。 「はて。なんだか気分がすーっとして、あたまがめっぽう、すがすがしく冴えてきたようだぞ」  こんな上乗の気分は子どものとき以来である。と、そのうち、先生はどういうものか、ひかり号の客車の通路に落ちているゴミがばかに気になってきた。 「あのゴミとこのゴミをひとまとめにして、しかるべきところに片づけたら、車内はなんぼか、すっきりするにちがいない。ひろおうかな。……ばかばかしい! いったいわしはなにを考えているのだ。わしは、日本を代表する政治家で、国会議員ではないか。この胸にかがやく菊のバッジにかけても、掃除婦のおばさんのやるような下らぬ仕事ができるものか!……そういうが、しかし、わしの亡き母上も、町役場の掃除婦だった。母上はよくわしにこうおっしゃったものだ。 『艶太郎よ。わたしは町役場のゴミをひろっているけれど、あなたは世の中のゴミをひろう立派な人におなんなさいよ』と。わしは世の中のゴミを片づけ、すこしでも清らかな社会をつくるために、代議士を志したのではなかったか?……それにしてもしかし、なにもこんなところでゴミをひろわなくても……。いや、母上の教えを、いまこそ実行すべきだ。でも、はずかしいなあ……馬鹿! はずかしいなどといっていては世の中はいつまでも綺麗にならんぞ! ようし……」  ひかり号十号車の乗客は、目を疑った。新聞の第一面やテレビの国会中継によく出てくる伊井艶太郎代議士が、とつぜん、通路にとびだして、床のごみをひろいだしたからだ。伊井艶太郎代議士はゴミをひろいながら、涙ぐみ、小声でうなっていた。 ひとつひろって母のためェ ふたつひろって母のためェ  伊井艶太郎代議士は、いまやいかなるテレビタレントよりも有名で、人気がある。テレビの国会中継の平均視聴率が六十三パーセント。というのは、議席に神妙にひかえていた伊井艶太郎代議士が、三十分に一回、議席の机の下にかくした亡き母の遺した屑籠を背負い、これも亡き母ゆずりの竹の長い屑ばさみを右手に、議場の通路を往復するのを見るためである。 ゴミをひろえの 母心 ひろえば愛の泉わく ひとつひろって母のため ふたつひろって人のため みっつひろって国のため えー、屑はございませんか  代議士のなかには作家出身がひとり、ふたりいた。原稿の締切りに追われると、会議場でペンを走らせたりすることも、ままある。いつものくせで、書き損じた原稿用紙をまるめてぽいなどとやると、じつにうれしそうな顔をして、屑籠背負った伊井艶太郎議員が立ち上がるのだった。 ごみをひろえの 母心 ひろえば愛の泉わく……  と、うたいながら。  伊井艶太郎議員の名誉のために、特にここで一言しておくが、彼のひろったのは国会や議員会館の通路のゴミばかりではない。社会のゴミも大いにひろった。汚職があれば、徹底的にたたかった。社会を清らかにする政案を平均一日ひとつずつ起案した。そのなかには、あの有名な「スモッグ退治措置法案」がある。これは東京都に住むものが仕事であれ、レジャーであれ、東京都を出る際に、かならず、一立方メートル以上の容量のある袋に、スモッグによごれた空気をつめこまなければならないという法律である。そして、都内にはいるときは、新鮮な空気を袋いっぱいつめて、持ちこまねばならぬ。 「こんばんは」  ある夜のこと、フン先生の家にブンがやってきた。 「あのう、どなたですかな?」  フン先生はホテル・ノークラで、ブンに歴史を盗まれて以来、なにもわからない。 「フン先生、いま、先生の歴史——過去をかえしてさしあげます」  ブンはフン先生の頭の上でひらひらと手をふった。 「やあ! これはブン」  フン先生は、ブンを見てどきりとしてしまった。質素な和服に無造作に髪をたばねただけのブンが、とても美しく見えたからだった。 「きれいだねえ、ブン」 「そうかしら」  ブンは、すこし赤くなった。 「わたし、男性より女性が性にあっているような気がするの。それで、女性になることにきめました」 「それはよい。きみはいまのままの姿でいた方がいい。じつに渋い魅力。ほれ、若尾文子、あの人そっくりだよ」  小説『ブン』が売れて金まわりのよくなったフン先生は、テレビを買ったが、若尾文子の出演するドラマが大好きで、よくみるのである。これは秘密だが、若尾文子あてにファンレターも何通か出していた。返事はかえってこなかったが、もっとも「わしは、あなたと結婚してもよいと思っとる」なんて書いてある手紙に返事がくるわけがない。 「そうだねえ、このごろのきみ……きみたちのやることはスケールが小さくなったね。前とくらべると小粒になったよ」 「ほかに何か気がつきません?」 「泥棒のくせに、金銀財宝ダイヤモンドに手をのばさず、人の……なんというかな……人の心に手をのばすようになったな」  ブンはうなずいた。 「さすがフン先生、よくお見抜きになっていらっしゃるわ」 「しかし、それはなぜなのだ?」 「どうせ盗むなら、人間の一番大切なものを盗んでやろうと思ったんです。で、いろいろ盗みをするうちに、人間が一番大切にしているものがわかりましたの」 「ほう、そりゃなにかね?」 「権威です。人を思いのままに動かすことのできる、あるもの。ある人にとっては八の字ヒゲ。ある人にとっては自分はこれだけのことをしたという過去の栄光、お医者さんの白衣、勲章、菊のバッジ、文学賞……人はそういうものがすきなんです。そういうものをたくさん手に入れて、その威光で、人を思いのままに動かそうとしているのね。お金も出世もホコリも、努力もよい行いも、なにもかもみんな、権威、力をもつための手段にすぎないんです」  フン先生は、ブンの話に耳を傾けながら、インスタントコーヒーをいれた。 「まあ、コーヒーでものみたまえ。でもねェ、ブン、もしそうだとしても、権威をもつことがなぜいかん?」 「人間の目がくもりますもの。権威をもつと、人は、愛や、やさしさや、正しいことがなにかを、忘れてしまうんです。そして、いったん、権威を手に入れてしまうと、それを守るために、どんなハレンチなことでも平気でやってしまうのだわ」  フン先生が反対した。 「いいかね、ブン、人間というものはだね、オギャア! と生まれおちたときから苦労を重ねて、押し寄せる運命とたたかい、ようやく中年になるころに、それぞれ分に応じて、他人とはりあう力をつけるようになる。それでいいのではないか。きみはあまりにも考え方がきびしすぎる いいかね、このわがはいだってそうなのだ。いまのような一流の小説家になるために、たいへん努力をしたのだよ。おかげでいまや小説は売れ……」  ブンが悲しそうな顔になった。そして、右手をあげ、ひらひらと振った。 「むむむむ……。はて、あなたはどなたですかな?」 「フン先生、わたし、先生の過去をいただきますわ。フン先生も、小説が売れて有名になると、ほかの人たちと同じ。わたし、悲しい」 「あなた、泣いてなさるね? どこのどなたかは存ぜぬが、ま、ハンカチで涙をおふきなさい」  ブンは涙をふいた。 「フン先生、過去がなくなったとたんに、先生のお顔、とてもおだやかないいお顔になりましたわ。先生、今夜は、ここにいてよろしいですか?」  フン先生はいった。 「どうぞどうぞ。行くところがないのならいつまでも、ここにいたまえ。人間、困っているときはおたがいさまじゃもの」  フン先生の家の近くの森の一番高い木の上で、クサキサンスケ警察長官の秘書の婦人警官が、この様子を望遠鏡で見ていた。 第六章 ブン対悪魔 悪魔悪魔とおっしゃいますが 悪魔がしぼりの浴衣に下駄はいて 物見遊山にくるものか ……人の心が欲しいのさ   人の魂にやってきてから食っちゃテレビを観て寝、食っちゃテレビを観て寝てばかりいる悪魔をたたきおこした。 「ブンが、フン先生の家にあらわれたのだ。さ、はやく行け!」 「わかってます。で、フン先生というひとの家の所番地は?」 「市川市のはずれに下総の国分寺という有名なお寺がある。そのお寺の裏側の畑の中の一軒家だ」 「了解。いってきまーす!」  さすがは悪魔、いざとなれば鮮かなものである。一瞬のうちに姿を消した。 「たのむぞ!」  長官は神に、いや悪魔に祈った。  おはなしかわって、ここはふたたびフン先生の家。フン先生は、押入れから出した布団を敷くと、ブンにいった。 「さあ、この布団へどうぞ。汚い布団だが、寒さはしのげる」 「先生はどうなさるんですか?」 「わしか? わしのことは心配いりませんよ。わしは男です。寝ようと思えば、どこにでも……」  そのとき、ブンがきっと顔をあげた。玄関を上がったところに、ピストルを構えた悪魔が立っていたのである。いまやその純なること幼児のごときフン先生は、思わずブンの前にたった。 「なにものですか?」 「おどき、あたいはブンを殺しにきたのよ」 「いかん! なんぴとといえど、人の生命を奪うことは許されない。たとえ、いかなる事情があろうとも、だ」 「ブン! よくおきき!」  悪魔はブンにいった。 「姿を消したりしたら、あたい、このおじさんを射つからね」 「フン先生、ここはわたしたちが、女と女ではなしをつけます」  ブンはフン先生を押しのけた。 「いや、いかん! 逃げるのだ! やつが、きみを狙っているぞ!」  そのとき、悪魔がピストルの引金に力をこめた。フン先生がブンをかばって前にとびだした。  ずどーん! 「あーっ!」  たおれたのはフン先生だった。フン先生は、弾丸があたったと思ったのである。だが、弾丸はあたらなかった。弾丸はブンが右手の親指と人指し指でつまんでいた。悪魔は目をこすった。 「信じられない。どうなっちゃってるの?」  ブンはカラカラと笑った。 「悪魔ってばかね。いいこと。わたしは光の速さの四分の三のスピードで走れるのよ。つまり、一秒間に二十二万五千キロよ。それにくらべたら、あんたのピストルの弾丸の速さなんて、時計の分針みたいなものよ」  悪魔は、悪魔を呪った。 「知らなかったわ!」  ブンはにやにやしながら、悪魔のまわりをまわり、ピンク色のしっぽに目をとめて、ぽきん! もぎとってしまった。 「あ、痛い!」 「記念品にもらっておくわ」 「ちくしょーっ!」  かわいい顔をした悪魔は、顔に似合わぬらんぼうな口をきく。 「ばけもの 怪物 鬼 悪魔」 「悪魔はあんたじゃないの。とにかく、わたし、わたしをかばってくださったフン先生の心臓に弾丸の突きささる○・○○○○八秒前に、すでに先生の前に出ていたわ。そしてそれから○・○○○○五秒後には弾丸をつまんでいたの」 「おぼえてろ、ブン」  悪魔は消えながら捨てぜりふ。 「きっとこの借りは返すわよ」  ブンはたたみの上にたおれているフン先生を抱き起こした。 「わたしの命、いえ、人間の命を救うため、ご自分の命を投げだされた先生、先生ならもう、過去を持ってらっしゃってもだいじょうぶね。はい、先生、過去をおかえしいたしますわ」  ブンはフン先生の頭上で、手をひらひらと振った。フン先生は、ぱっちりと目をあけた。 「やあ、ブンではないか? わたしはどうして、きみに抱かれているのだね?」 「フン先生は、いま、わたしの命をすくってくださろうとなさったんです」 「ほう、わたしがね。なぜだろう? なぜわたしが、きみの命を……」  いいかけてフン先生は、ぽーっと赤くなった。 「わかったよ、ブン。どうやらわたしは、きみが好きになったらしい」 「どうして、わたしを?」  ブンがきいた。フン先生は答えるかわりにこんな唄をうたった。 ただ好きなのさ つまるところ そういうことなのさ 理屈はいらない ただ好きなのさ ただそれだけのことなのさ  ブンがあとをつづけた。 えらい心理学者にも 身上相談の回答者にも ニュースの解説する人にも どんな物識りにも どんな大文豪にも 説明がつかない けど 知ってるひとはしってる ただ好きなのさ と  ここからブンとフン先生の二重唱、ぐーっと盛り上がる。 ただ好きなのさ つまるところ そういうことなのさ 理屈はいらない ただ好きなのさ ただそれだけのことなのさ  警察長官官邸の応接間では、悪魔がちいさくなっていた。 「ごめんなさい」 「あやまってもらっても仕方がない。ビジネスはビジネスだ。すぐ、また、ブンをやっつける手を考えだしてくれ。さもないと……」  クサキ長官は悪魔を指さして凄んだ。 「銃殺だ。ぶっ殺してやる!」  悪魔は、ふるえ上がった。だが、人間とおなじように悪魔も追いつめられると、いい知恵が浮かぶものらしい。急ににやっと笑っていった。 「かなりケッコウな手がありますわ、長官。大至急、小説家をさがしだしてくださいません?」 「小説家だと?」 「欲をいえば、盗作の天才がいないかしら?」  山形東作といえば数年前、マスコミを大いににぎわせた人物である。 「天才小説家あらわる!」  というので、文学と、ふだんはぜんぜん関係のない芸能週刊誌までが特集をしたり、表紙に引っぱりだしたりしたぐらいである。  当時二十二歳。東京大学仏文科在学中の秀才。しかも、身長一メートル八○でボート部の主将、ルックスがまたいい。リチャード・バートンより上品で、スティーブ・マックイーンより野性的で、丸山明宏やピーターなどさかだちしても追いつかない色気がある。それでいて、渥美清よりとぼけていて、皇室のやんごとない御方がたより気品があり、歌をうたわせればこれがまたしびれる。フランク・シナトラが弟子入りしたいといったからたいしたものだ。  この青年が、夏休みにちょこちょこと書きあげた三編の小説が「文学界新人賞」「小説現代新人賞」そして「群像新人賞」と三つの文学賞をとってしまったばかりか、三編の中の二編がそれぞれ、その年の下半期の芥川賞と直木賞を受けることになってしまったのである。  彼の作品集は(なにしろ作品といっても短編が三編しかない。それでは薄っぺらな本しかできない。そこで編集者は東作くんの小学時代の綴方まで集めてきて載せた)六か月間、ベストセラーのトップを独走し、三つの小説はそれぞれ映画化され、芝居になり、大当りをとった。が、東作くんの運もそこまでだった。出版社に舞いこんだ一通の匿名の投書が、東作くんのすべてを暴露したのである。その投書によれば東作くんの三編の小説は、古今東西の三百以上の小説を糊とはさみで切ったり貼ったりしてつなぎ合わせた盗作であるというのだった。  そして、たしかにそのとおりだった。編集者が調べたところによると、三編とも一行も東作くんが創作した文章はなく、シェークスピアからドストエフスキイ、夏目漱石から北杜夫まで、三百にあまる作品をじつにたくみに切って、ばらばらにし、貼りあわせた代物だったのである。  東作くんは、こうして、マスコミから消えた。いまは、東京神田郵便局の集配人をしている。数年前まではすらりとしていたが、いまはひどく肥っていて、郵便カバンをかついで神田の街を行くその歩きぶりは、巨体とあいまって、どこか優雅な熊を思わせる。  いったい、なぜ、東作くんはいま郵便局の集配人をやっているのか。  それには深いわけがある。東作くんは、自分を栄光の絶頂から引きずりおとしたあの匿名の投書の差出人をつきとめようと考えているのである。投書をするぐらいの人間であるから、しばしば手紙を書くにちがいない。それならば、郵便物の集配人をやっていれば、あの匿名主の筆蹟にまためぐりあえぬともかぎらない。なにしろ、あの匿名の投書の筆蹟は下手くそだった。おそるべき下手くそさだった。金釘流というより、塩をぶっかけられたなめくじが、己の身の溶けていくのを知って愕然とし、のたうちまわっているような筆の運びだった。数秒みつめていると吐気を催すような字であった。しかも、封筒と便箋がかわっていて、封筒は新聞の折込み広告を改造したものであるし、便箋は折込み広告の裏に線をひいたものだった。 (あれなら、いつどこで出っくわしても、わかる。匿名主がわかったら、もうただではおかぬ。爆弾を投げつけてやろうか、東京都の清掃車を一台のこらず借り受けて、玄関といわず座敷といわず、トイレといわず、黄色い汚物をぶちまけてやろうか……)  そんなことを考えながら、東作くんは、アサヒ書店の表戸をあけ、郵便物を投げこもうとして、ぎょっとした。アサヒ書店あての郵便物数十通の一番上にのっているのは、まぎれもなくあの断末魔のなめくじ文字のたうちまわる葉書ではないか! 差出人を見た。  差出人はフン。  文面を読んだ。 「小説『ブン』を、英国、米国、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、スウェーデンの七か国で出版したいとのおはなし、たしかに承知しました。すべてあなたにおまかせいたします」  東作くんは、手帖にフン先生の住所をメモした。 「そうか。そうだったのか。いま『ブン』という小説で大当りにあたっているフン先生が、このおれの足をひっぱったやつだったのか。ようし、どうするかみていろ」  東作くんは、配達を終えると、集配主任に三日間の休暇を願い出た。そして、アパートにひきこもって、いかなる方法でフン先生に復讐するか、その秘策をねりはじめた。 「おれはこの数年数か月、ひたすらこのチャンスをねらってきたのだ。イヒヒヒヒ」  東作くんはなんとはなしに自分が巌窟王になったような気がしてきた。 「まず、かつら屋に行って、ぼうぼうたる白髪のかつらを買うのだ。そして、白髪の老人になり、あいつの前にぬーっと出てやる。輝ける未来を、一通の投書によってだいなしにされた青年が、その恨みのために数年の間に老人になってしまったというわけだ。おお、なんと劇的なはなしではないか」  自分の盗作をたなにあげ、東作くんは、復讐の鬼になった。そのとき、ドアをトカトントンとノックするものがある。  ドアをあけると、速達の配達人だった。なにごとならん? と復讐の鬼は差出人をみた。そこには「クサキサンスケ警察長官」とあった。 「はてなあ」  復讐の鬼はすこし不安になって呟いた。 「おれ、あのあとべつに盗作やってないし、警察によばれるおぼえないんだけど」  さて、その速達の文面は次のようなものであった。 「山形東作君。国家がきみの才能を必要としている。ぜひ、協力いただきたい。協力していただければ、日本銀行振出しの額面五百万円の小切手がきみのものとなるであろう。くわしいことはおっておしらせする。 (日本銀行の小切手ならば、とりっぱぐれはないな。そして、五百万円あれば……フンに復讐する資金にもなる。大砲ぐらい買えるかもしれない。大砲でどかん! とやるのもひとつの手だな)  五百万円入ると知って、東作くんは、ばかに気が大きくなった。 「ビールで乾杯でもするか」  東作くんは小型冷蔵庫をあけた。すると中に、いつの間にだれが入れたのだろうか、小型カセットテープレコーダーがはいっていた。 「あれまあ」  東作くんがおどろいて持ち上げると、テープがまわりだした。 「おはよう。東作くん」  低い、太い、いい声がいった。 「今回の君の任務は、小説家のフン君の文体と字体をまねて、小説を書くことにある。小説の題名はきまっている。それは『続・ブン』という題名である。小説の内容は、新しいブンが、小説からとびだして、今までの古いブンをみなごろしにするはなしを書いてほしい。時間は二十四時間しかない。迅速、かつ隠密に任務に着手されたい。例によって、君がどのような危険にさらされ、命を落そうと、当局は一切関知しないからそのつもりで。  なお、このテープは十五秒たっても消滅しない。テープレコーダーともども、きみにさしあげる。成功を祈る」  あくる日の夜、不精ひげを生やし、徹夜で充血した目をして、東作くんが警察長官官邸にやってきた。東作くんは、分厚い原稿の束をでんと長官のデスクの上においた。 「やりましたよ、ぼくは……」  東作くんは、そういうとソファに沈みこんだ。 「ぼくは、あのフンの野郎の、文体から字体までそっくり似せてこの小説を書きました。盗作しました。当人が読んでも、これを他人が書いたとは思いませんよ。『あれ、こんなものをいつ書いたのかなあ。でも、とにかく、ここにこうして原稿があるのだから、わしが書いたんだなあ』というにきまってます。それほど、うまくやりましたよ」 「でかした。で、小説のあらすじは?」 「そこにぬかりはありません。世の中にとびだしたブンが、世界のひとたちに迷惑をかけたことをひどく後悔して、すべてのブンをみなごろしにし、ついに最後に、生みの親のフンを短刀でぐさっとひとつき、息の根をとめてから、小説の中にもどっておとなしくなる、というストーリーにしてあります」 「ありがとう。これできみはブンの悪事に悩む全世界の人をすくったことになる」 「そんなことより、お金はいついただけるんですか?」  長官はひきだしから小切手を取り出し、東作くんにわたした。 「五百万円、たしかにおわたしするよ」  東作くんは、昨日からの疲れと、現実に五百万円はいってきたうれしさで、ぽーっと目の前がかすみ、そして、そのまま気絶してしまった。 「悪魔よ、出ておいで」  長官がいうと、悪魔がソフトクリームをペロペロなめながら、姿をあらわした。 「ソフトクリームってほんとうにおいしいわ。これを、一個六十円かそこらでたべることのできる人間のくらし、まんざらすてたものでもないわね」 「ソフトクリームのことなんぞ、どうでもよろしい。事は君のアイデアどおりに運んでおる。そこにぶったおれている盗作の天才が、フンの文体と字体をそっくりまねて、『続・ブン』なる小説を完成してきてくれたのだ。さて、悪魔ちゃん、このあとどうなる?」  悪魔は、ソフトクリームのコーンの部分をばりばりとかみくだいた。 「このあとは、ちょいとしたみものよ。まず、この『続・ブン』の生原稿から、新しいブンが、世の中にぬけだすのよ。そして、その新しいブンが、世の中のブンをすべてやっつけてしまうわけ」  悪魔はデスクにすわって生原稿をペラペラめくりはじめた。そして、ペンをとってちょいちょいつけくわえる。 「この新しいブンは、光の速度の五分の四のスピードで走ることができるってふうになおしましょうよ。いままでのブンの速さは光の速度の四分の三、より速くなったわけよ」  そこで『続・ブン』の本文の書きだしはこうなった。 「新しいブンとは何者か? 新しいブンとは時間をこえ、空間をこえ、神出鬼没、やること奇抜、なすこと抜群、なにひとつ不可能はなくすべてが可能。どんな願いごとでもかなう大泥棒である。新しいブンは光の速度の五分の四の速さでとび、過去へもスイスイ、未来へもツウツウ行けるのである。石川五右ヱ門とかネズミ小僧次郎吉とか、アルセーヌ・ルパンとか怪盗ジバコとか、三億円の輸送車泥棒とか、ブンとか、そのほかいろいろと世に大泥棒の数は多いが、どんな大泥棒も、この大泥棒新しいブンの前に出ては赤ン坊同然、借りてきた猫と同じ。というのはなぜか? それは新しいブンが四次元の男だからである」  長官は満足した。 「じつにすばらしい。これなら今までの古いブンは、新しいブンにかなうまい」 「あたい、ソフトクリームをなめているうちに思いついたことがあるのよ。そしてそれが、なかなか捨てがたいアイデアなの」 「ほう、いってみなさい、悪魔ちゃん」 「いうなら、人質作戦ね」 「人質?」 「あたい、ブンをピストルでねらって失敗したけど、そのとき、ブンとフンがひどく仲のいいことに気がついたの。まるで恋人同士みたいだったわ。そこで……」 「みなまでいうな」  長官が悪魔をさえぎった。 「フン先生を人質にすれば、ブンの動きを封じることができるというのだな?」 「さすが長官、ずばり御明答! 古いブンたちの動きを封じておいて、そこを、新しいブンにやっつけさせるわけよ」 「なるほどなるほど。じつに非の打ちどころのない両面作戦になるぞ。よく思いついてくれた。このお礼に、ソフトクリームをたくさんたべさせてあげよう。いや、ソフトクリームの機械を一台、プレゼントするよ」 「ありがとう。さあて、はやく生原稿のなかから、新しいブンがとびだしてくれないかしら?」  悪魔がそういったときである。山形東作くんの書いた盗作小説『続・ブン』の生原稿が、金網の上の餅のようにプーッとふくれあがり、ふくれ上がったところがやがて、  ぷっ!  とやぶれたかと思うと、そのやぶれ目から、ぷくぷくふとってふくらんで、風船のようなまるがおの男がひとり、顔を出し、間ののびた声でふたりに挨拶した。 「はじめまして。おいら、ブンのにせものです」 「おっ! 新しいブンか。待ちかねておったぞ」  悪魔は生原稿のなかで、もぞもぞやっている偽ブンの手をひっぱり出して、 「さあ、はやく外へ出ておいでよ」  偽ブンは気弱そうに笑い、 「出たいんですが、それがなかなか」 「なぜ? どうして? あなたは、なにひとつ不可能なことのない四次元の男としてつくられているのよ?」 「えへへ」  偽ブンはあたまをかいた。 「あたしゃ偽者でしてね。本物みたいにうまく行きませんや」 「情けのないことをいうのではない」  長官も偽ブンのもう一方の手をとった。 「きみにわしは、すべてを賭けとるんじゃ。さあ、悪魔ちゃん、新しいブンを外にひっぱりだそう」 「ええ。せーの!」 「どっこいさのせ!」  すっぽん!  偽ブンはひっぱられて外へとびだした。なんとなく下半身の線がたよりない。よたよたしている。 「つまり、あっしゃ、全身に栄養がいきわたっていないんでさ。というのも、こちらの旦那の……」  と偽ブンは、ソファに沈んでねむりこんでいる生みの親の山形東作くんを指さした。 「このう、なんていうんですか、描写ですか、小説の肉づけというんですか、それが下半身について不充分なんですよ。こういっちゃなんですが、本家のブン、元祖のブン、家元のブン、オリジナル・ブンを書いたフン先生は、さすが本物の小説家、気迫がこもってました。お書きになることに、バランスがとれておりました。だからこそ、迫力のある、バランスのとれた元祖のブンが生まれることもできたようなわけで……そこへいくと、あっしは分家ですからやはり……」 「元祖だの、分家だのとつべこべ申すでない! 最中やおまんじゅうの本家争いやってるわけじゃないのだ。よいかな、新しいブンよ、おまえのとびだしてきたこの世界は弱肉強食、実力がものをいう世界なのだ。おまえは、たとえ、いまは偽者でも、ホンモノをぶちのめせばホンモノになれる」  悪魔もそばからおだてあげた。 「そうよ警察長官のおっしゃるとおり。軍隊や会社じゃあるまいし、年功序列なんてはやらないのよ。とにかく、アン汁よりイモがやすしだわ。実力をためしてごらんなさい」  長官が悪魔のことばを訂正した。 「アン汁よりイモがやすしだと? それをいうなら、案ずるより生むがやすしだ」 「とにかくブンさん、お誕生おめでとう。さあ、小手しらべに小説家のフン先生を連れてきなさい」 「ようがす」  偽ブンは、たち上がった。 「一発やっつけてみましょう。でも、うまく行くかどうか、あっしはしりませんがね」  偽ブンはすーっと姿を消した。だが、ホンモノのブンにくらべるとお世辞にも、お見事とはいえなかった。上半身はぱっと消えたが、下半身の方は消えたかと思うとまた出たり、出たかと思うと結局消えたり、まるで芯の切れかかった便所の電球のように点滅していた。ついに待ちきれず、長官が怒鳴った。 「ネオンサインじゃあるまいし、いつまでついたり消えたりしているんだ。時間がないのだぞ、時間が!」  ここは市川、国分寺。フン先生は、寝るところであった。 「やれやれ、きょうも一日、無事に終わった。小説『ブン』はあいかわらず売れているらしいし、きょうもちゃんと食事を三度に、おやつを三度いただけた。ありがたいことだ、じつに人生はすばらしい」  だが、まだ一日は無事に終わったわけではなかった。枕元に、ふわーっと偽ブンがあらわれたのである。 「おお、ブン……」 「フン先生、わたしとドライブにいきませんか。気分がすーっとしますよ。次の小説の構想を練るにはもってこいです」 「そうだな。そうしようか」  フン先生は起き上がったが、ふと首をひねって、 「おかしい。ブン、きみはいつものブンではないような気がする。なんだか感じがちがうなあ。それに、きみはこのごろ、わしの前に、いつも、女性としてあらわれるのに、今夜にかぎって、中年のこそ泥スタイル。どうも、へんだねえ」 「じつはね、フン先生。あたしゃ、このごろちょいとばかり、趣味がかわりましたんで」  偽ブンはフン先生の手をとった。 「フン先生、あたしゃこの手をはなしませんぜ」 「ブン! そりゃどういう意味だ? きみらしくもないことをいうではないか」  偽ブンは、フン先生の手をひょいと逆手にねじあげた。 「えへへ。じつは先生、あたしゃブンであってブンではないんですよ。ブンはブンでも、偽者のブンで。やい! フン! じたばたしねえで、おれについてきやがれ!」  一時間後。フン先生は警察庁の座敷牢の中にいた。鉄格子の外では、長官と悪魔と偽ブンが、シャンパンを抜いて祝っていた。 「偽ブン、よくやったぞ。ほめてつかわす」  長官が、偽ブンのグラスにシャンパンを注ぎながらいった。 「これでわしもようやく、枕を高くしてねむることができるわい」 「こんな座敷牢じゃだめでがすよ。相手がホンモノのブンじゃ、いっぺんで破られてしまいますぜ」 「さあ、それはどうかな、ヒック」  悪魔は、シャンパンの飲みすぎか、げっぷの連発。 「この座敷牢はね、そんじょそこらにある座敷牢とは、仕掛けがヒックちがうのよ。鉄格子はもちろん、三方の壁、天井、床の下に電流が流れてヒックいるのよヒック」 「だれかがこの牢の中にはいろうとすれば、電気の流れに変化が生じ、天井に仕掛けた五百本の殺人光線がフン先生の命を奪うのだ。ブンといえど、光よりはおそい。つまり、やつにもここは手がでない」  フン先生が牢の中から叫んだ。 「卑怯者めが!」 「なんといわれても、いっこうに痛くも痒くもないね。これがわたしの仕事なのだ。さあ、フン先生、ここから出たければブンを呼んで降服するよう説得なさい」 「いやだ。断じて否!」 「それならそれで結構。しかし、フン先生、あなたがブンをよばなくとも、ブンの方からやってきてくれますよ」  悪魔がさもくやしそうに口をだした。 「きっとくるわよ。あいつはフン先生と、たいへんな仲よしじゃない。ほうっておかないわよ。あたいにもそんな友だちがほしい。ねえ、新しいブン、あたいとデートしない? 結婚しない」  偽ブンは、あわてて手をふった。「ごめんだね」  悪魔はなおもしつっこく喰いさがった。 「ねェ、共稼ぎでもいいんだけど」 第七章 世界ブン大会 造反 内ゲバ 下剋上 裏切 日和見 リンチ刑 波瀾万丈ブン大会 十二万のブンに 十二万の異見 大切なのは 正邪ラグビー場に、全世界に散っていた十二万人のブンが集まっていた。生原稿から抜けだしたブンが、本から抜けだした十二万の仲間を集めたのだった。  なんといっても、生原稿から抜けだしたブンは、仲間から尊敬されていた。オリジナル・ブンという尊称でよばれているぐらいである。そのオリジナル・ブンが、まず十二万のブンによびかけた。 「わが兄弟よ、わが同胞よ、マイ・ブラザーズよ、メ・フレールよ。兄弟たちのなかにはすでに御存知の方もあろうと思うが、われらの生みの親である小説家のフン先生は、昨夜おそく、クサキサンスケ警察長官の手によって逮捕されました」  場内にどよめきが起こった。 「卑劣千万にも、クサキ長官は、フン先生を特殊な仕掛けをほどこした座敷牢にとじこめたのでありますが、この座敷牢は、われわれの手をもってしても、破れないのであります」  最前列にいた若いブン——若いというわけは、このブンは、ごく最近増刷された小説『ブン』のなかから抜けだしたやつだからである。彼の売れた順番は十一万九千九百九十九番目、したがって、この若いブンは十一万九千九百九十九号とよばれている——が叫んだ。 「ナーンセンス! 闘わずして諦めるのは敗北主義だぞォ! オリジナル・ブンはもう老いぼれちまったのかよォ!」  十一万九千九百九十九号のまわりにいた若いブンたちが、拳を天に突きあげて、シュプレッヒ・コールをはじめた。 「われわれは断固闘うぞォ!」 「フン先生を即時返還しろ!」  ついさっきまで、ヴェトナムでアメリカ兵の武器を盗みまくっていた、十一万八千号が叫んだ。 「アメリカはヴェトナムから撤兵しろォ!」  オリジナル・ブンはシュプレッヒ・コールを制した。 「もうすこし、わたしのいうことをきいてほしい、若い兄弟たちよ。もちろん、われわれには不可能ということがない。座敷牢など簡単にやぶれる。しかし、われわれが座敷牢をやぶったとたん、電気の流れが変化しフン先生に向かって、殺人光線銃の引金が引かれる仕掛けになっているのだ。われわれがフン先生を助けようとする行動が、逆にフン先生を殺してしまうのであります。われわれはいったいどうしたらいいのでありましょうか」  また若いブンたちが、シュプレッヒ・コールをはじめた。いつの間にか、若いブンたちは、ヘルメットをかぶり、汚い手拭で口をふさぎ、手にはゲバ棒や火焔びんを持っている。ヘルメットにはペンキでこう書いてあった。「全ブン闘」。 「闘うぞォ! おれたちは闘うぞォ! ただちにデモろう! ゲバ棒と火焔びんで、警察長官官邸を占拠するぞォ!」  壇の上に並んでいたブン二号が大喝した。 「若い兄弟たちよ、過激派学生の猿まねをしちゃいかん。考えてもみなさい。われわれはこの数週間、世のお偉方から権威を盗んで、一般大衆の喝采を浴びている。つまり、われわれは評判がよいのだ」 「ナーンセンス!」 「いいから、ききたまえ! その評判は大切にしなければならん。きみたち若い兄弟たちのはねあがり的な行動、暴力は、われわれの評判を台なしにする。世間の人たちを結局敵にまわしてしまうことになる」  賛成するもの、反対するもの、会場はふたつにわかれはじめた。そのすきに、壇上によたよたかけ上がったブンがある。これなん、例の偽ブンで、 「みなさーん 直接的行動はやめましょう。世の中はそういっぺんにかわるものではありません。日常活動こそ大切なのです。それぞれの受持ち地域で、ベストをつくして働くことが、やがて世の中を変えるのです。もちろん若い兄弟たちの気持ちはわかります。しかし、ここは自重すべきではありますまいか。軽々しい行動はさしひかえるべきであります」  若いブンたちが、壇の前ではげしくデモ行進をしはじめた。そして、口々に壇上の偽ブンめがけて、野次をとばしはじめた。 「代々木共産党のまわし者め!」 「民青的発想はやめろ!」 「民コロ、くたばれ!」 「きみたちはひとの意見をどうしてきかないんだ? みなさーん! わたくしは提案します。ここしばらくは様子をみようじゃありませんか。そして、この大会の責任者であるオリジナル・ブンにまかせましょう」  オリジナル・ブンは偽ブンと並んで壇上に立った。 「わたしにまかせるというと?」 「ここは、政策とか、作戦とか、戦略とか、そういう政治主義はいっさい捨てて、人間主義でいくべきじゃないでしょうか。あなたはオリジナル・ブン、フン先生と特に親しいのだから、その友情で解決なさればいい。フン先生をそんなにたすけたかったら、身代りにあなたが牢屋にはいればよろしい。フン先生は生みの親、たいせつなお人です。しかし、これだけの組織をフン先生ひとりたすけるために犠牲にするのは、どんなものでしょうか」  オリジナル・ブンはだまって偽ブンをみつめていた。だまっていないのは若いブンたちで、 「取引はやめろ!」 「フン先生に起こっていることは、おれたちに起こっていることなのだぞ!」  十一万九千九百九十八号が壇上めがけて石を投げた。偽ブンはわめいた。 「なにをする! 機動隊を導入するぞ!」  このことばが偽ブンのこの世での最後のことばだった。壇上にばったりうつぶせに倒れた偽ブンの背中には、九寸五分(匕首のこと)が突き刺さっていた。会場は真夜中の墓場のように静まりかえった。オリジナル・ブンは十二万のブンたちに語りかけた。 「わが兄弟たちよ、こいつを殺したのはわたしです。なぜ、こいつを殺したか? それはこいつが偽者だからです。やつは夢中になってわれわれを煽動しようとした。そのためにやつは尻尾をだしたのです。見なさい。こいつの歯を。ムシ歯が一本もないでしょう。われわれにはムシ歯が三本ずつあります。フン先生がそうお書きになったから、ムシ歯があるのです。こいつは、長官側がどこかの小説家にたのんで書かせた、盗作の小説『ブン』からぬけだした、偽者のブンだったのです。その小説家は、口の中の描写にまで手がまわらなかったのでしょうね。さて、わが兄弟たちよ、フン先生をすくう方法は、どうやら、ただひとつしかないようです。それは、われわれ全部のブンが全国に散り、ありとあらゆる警察署や交番に自首して出ることなのですが……」  また、若いブンたちがさわぎはじめた。 「きいてください。つかまるだけのためにつかまるのではありません。世の中を根ッ子からかえるために、つかまりに行くのです。その方法は……いまはいえません。わが兄弟たちよ、わたしを信頼してくださるなら、いますぐ自首してください」  一秒あと、秩父宮ラグビー場にはただひとりのブンもいなくなっていた。  フン先生は座敷牢の中で食事をしていた。べつに焦っても、あわててもいなかった。 「なーに、どこで暮らそうと、住めば都ではないか。わしはサラリーマンではないから会社に出かける必要はない。セールスマンでもありゃしないのだから、外を歩きまわることもないのだ。小説家は一メートル四方のすわる場所と、机がわりの木の箱でもあれば、小説がかけるのだ。仕事ができるのだ」  急に通路の方がさわがしくなった。 「ブンだ」 「ブンが座敷牢の方へ行くぞォ!」  フン先生は箸をばったととり落し、 「なに、ブン?」  鉄格子をすかしてみると、それはたしかにブン。地味な和服に束ね髪。ブンは座敷牢の前までくるとフン先生に、にっこり笑いかけた。 「フン先生。先生をすぐここからおだしいたしますわ」  フン先生はあわてて手をふった。 「ブン! 中へはいってはいかん!」 「仕掛けはわかっていますわ。わたし、つかまりにきたんです。わたしが牢にはいるかわりに先生を……」 「いいのだよ、ブン」  フン先生はいった。 「わしをたすけようとしないでも、いいのだよ。おまえはわしの作品なのだ。わかるか? おまえがつかまるということは、『ブン』というわしの小説がなくなってしまうということなのだ。わしは、自分の作品を守るためならたとえ、死のうと悔いはない。また、ちょっぴり悲しいことなのだが、おまえは、いまや、わしひとりのブンではないのだよ。小説『ブン』を読み、主人公のおまえを気に入ってくれている、世界中のひとたちのブンなのだ」 「おっしゃることはよくわかります。でも、フン先生を牢屋にとじこめたままにしておくなんて、とてもできません」 「しかし、ブン……!」 「先生、わたしのやりたいようにやらせてくださいな。そしてこれがいちばん、いい方法なんです」  ブンの決心はダイヤモンドや大理石より、それどころか、ついてから一か月たったお餅よりかたそうだった。フン先生はいやいやながらうなずいた。 「きみのいうとおりにするよ」  そこへクサキ長官がやってきた。 「きたか、ブン! 待っていたぞ」  長官は上機嫌。 「これでわしの地位はあんたいじゃ。全国各地の交番や警察署に、貴様の仲間が続々と自首してきておる。わしの圧倒的勝利じゃ。ときにブン。牢屋に叩きこむ前にひとつだけ念をおしておく。よいか。逃げたりしちゃいかんよ。だいたい、逃げてもむだ。貴様が逃げればまたフン先生を牢屋にたたきこむだけだからな」  ブンはにこにこ笑っているだけである。 第八章 ブン裁判 垂直思考に断絶時代 水平の 太で行なわれた。  それは、どのような裁判だったか、そして、その判決はどうであったか。ここに速記録があるので、それをただ書き写そう。 ○月○日(○曜日)晴、トキドキ曇、トコロドコロ雨、突然、雪カラミゾレ、ミゾレカラアラレ。イロンナモノガ降ルノデ、オ金デモ降ラナイカナァ、ト思ッテシバラク空ヲ見上ゲテイタガ、オ金ハ、トウトウ降ラナカッタ。 サテ、本日ハ、ブンノ裁判判決ノ日ナリ。 裁判所ノ前ハ、一昨日アタリヨリ、黒山ノ人ダカリ。ブンノ人気ノホドガウカガワレル。裁判ノ一時間前、裁判長ガ到着。ソノ際、裁判所前ノ黒山ノ如キ群衆、期セズシテ、しゅぷれっひ・こーるノ大合唱。ソレヲ記セバ次ノ如シ。 ブンを釈放しろ! ブンを釈放しろ! ブンは貧乏人から 何も盗まなかった  釈放だ! 釈放だ!  ブンはなにもしない! お偉方の鼻を ちょっとあかしただけだ  釈放だ! 釈放だ!  ブンはなにもしない! ブンはおれたちを ちょっと笑わせてくれただけだ  釈放だ! 釈放だ!  ブンはなにもしない! コノ大合唱ハ、裁判ガ始マルマデ続イタガ、ツラレテ、私(速記者)モ、守衛モ大合唱。裁判長ニ注意サレル。(ぼーなすニ ヒビキャシナイカト 心配ニナル) 開廷二十分前。ブン到着。イヤモウ大変ナ騒ギ。月カラ帰ッタ宇宙飛行士ヲ迎エタ時ノ紐育市民ノ熱狂ブリモ コンナモノダッタノデハ ナイカト思ワレル。ブンニさいんヲネダルモノ、てーぷれこーだーヲ マワシテ ブンノ声ヲ録音シヨウトイウモノ多ク、ブンハ揉苦茶ニサレ、囚人服ハ ボロボロト ナル。定刻ヨリ 二十分遅レテ イヨイヨ開廷! 法廷内大騒然。 裁判長 オ静カニ、オ静カニ! デナイト、退場サセマスゾ。 裁判長 デハ、検事ノ 最終論告。ドウゾ。 検事 新幹線ヲ盗ンダカドニヨリ懲役三年! てーむず川ノ水ヲ盗ンダカドニヨリ懲役一年! 縞馬ノ縞ヲ盗ンダカドニヨリ懲役一年! 上流婦人ヲ カラカッタカドニヨリ懲役六カ月! 壁ヲ通リ抜ケタカドニヨリ懲役五年! 角ヲ曲ッタカドニヨリ懲役三時間! 高気圧ト低気圧ヲ盗ンダカドニヨリ懲役八年! 高血圧ト低血圧ヲ盗ンダカドニヨリ懲役一年! 原稿及ビ本ノ中カラ 抜ケ出シ、飛ビ出シタカドニヨリ懲役十年! 奈良ノ大仏ヲ 鎌倉ニ移動サセタカドニヨリ懲役十カ月! 相撲ノ関取衆ノ褌ヲ盗ミ、人ニハ隠シオクベキ所ヲ 公衆ノ面前ニサラサセシカドニヨリ懲役五年ト六カ月! あんぱんノへそヲ 盗ミシカドニヨリ懲役十日! 蛙ノへそニ あんぱんノへそヲ クッツケシカドニヨリ……コレハ無罪! 便器ヲ盗ミシカドニヨリ懲役一年! 泥棒ガ盗ミシ金ヲ マタ盗ミシカドニヨリ懲役二年! 蠅ノ目玉ヲ 盗ミシカドニヨリ……コレハ無罪ダガ、世ノ蠅ニ詫ビルベキデアル! 卵ノ黄味ヲ 盗ンダカドニヨリ懲役一年! あまぞん流域ヨリ 鰐ヲ盗ミシカドニヨリ懲役四年! ソノ鰐ヲ 東京都ノ下水道ニ移動セシカドニヨリ懲役八年ト六カ月! ねす湖ノ怪物ヲ芦の湖ニ移動セシカドニヨリ懲役六カ月! 其ノ他大勢ノ著名人ヲ 東西南北ニ 移動セシカドニヨリ懲役十八年! 清涼飲料水ノ自動販売機並ビニ切符販売機ヲ 月ニ移動セシカドニヨリ懲役十年! 悪魔ノウチシぴすとるノ弾丸ヲ 盗ミシカドニヨリ懲役一カ月! 世界的大歌手ノ美声、世界的大作家ノ文体、世界的大学者ノヒゲ、其ノ他ヲ盗ミシカドニヨリ懲役十三年! 其ノ他 猫ノヒゲヲ盗ンデ 一カ月! 鶏ノトサカ盗ンデ 半カ月! イワシ 盗ンデ 半日! コヤシ 盗ンデ 三日! モヤシ 盗ンデ 五日! オカシ 盗ンデ 十日! マワシ 盗ンデ 二十日! 裁判長 検事ヨ、一体イツマデ続クノカ。明日ノ朝マデニ終ワルノカ? 検事 裁判長閣下、明日ノ朝マデニ終ワレバ、良イ方デス。私ノ考エデハ、ザット三週間、ブッ続ケニ読ンデモ……。 裁判長 終ワラナイノカ? 検事 ハイ。 裁判長 時間ノ不経済デアル。コノ辺デ、検事ノ論告ハ ヤメ。続イテ 弁護人ノ 弁護。 弁護人 弁護ノ余地 アリマセン! 以上デ、弁護人ノ 弁護終ワリ! 弁護人ニ場内ヨリ 盛ンニ卵トとまとガ飛ブ。 裁判長 木槌叩イテ、場内ノ 騒ギヲ 押ナ拍手、湧キ起コル。 裁判長ノ 木槌ノ音、数回。 裁判長 本法廷ハ ブンヲ、三年ト五年デ八年、ソレニ一年ト一年ト六カ月ト五年ト三時間ト、八年ト一年ト十年ト……。 裁判長 エート、三百十七年マデ 加エテ数エタ所デ、ワカラナクナッテシマッタガ、エイ、マァヨカロウ。オホン ブンヲ 三百十七年ノ懲役ニ イタシマス。 場内マタシテモ 大騒然。 裁判長、逃務所へ行こう 盗みましょうよ 盗みましょうよ ダイヤ 金銀 権威 常識 ブンにならって 盗みましょう  季節は春になっていた。フン先生が、自分の書いた小説『ブン』の生原稿から抜けだしたブンに、はじめてあったのが、前の年の秋であったから、あれからもう半年近くたつわけである。  フン先生は、気の早い春の花がチラホラ咲きだした湘南の小さな山をのぼっていった。数日前、相模湾に臨むこの小さな山の中腹に、「湘南刑務所」が開所し、網走刑務所に入れられていたブンが、昨日、この湘南刑務所に移ってきたという報せがあり、さっそく、フン先生が、面会にやってきたのである。フン先生は山道をのぼりながらこう考えた。 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに、人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、やすいところへ引っこしたくなる。わしもこのへんに引っこしたいのだが、このへんは高いだろうなあ」  夏目漱石の「草枕」の登場人物と同じようなことを、フン先生はつぶやいてのぼりつづける。道は、不意に、大きく左にまがった。雑木林の向うに、ちょうど、後楽園球場がひとつ、すっぽりはいるような平地があり、そこにま新しい白堊の四階建の建物が建っているのが見える。  東京あたりに建っている、味もそっけも趣きもないような、箱みたいなビルではない。ヨーロッパ風の洒落たビル。いや、ビルということばは正確ではない。「マンション○○○」「カサ○○○」「ドミ○○○」「○○ハビタション」などと呼んだ方がぴったりくる、高層、高級住宅といった感じだ。知らない人はホテルだと思うかもしれないが、じつは、ここが、ブンの収容されている湘南刑務所なのである。 「これは、これは!」  フン先生は、前にひろがる紺青の海や、うしろにそびえる緑の山と、じつによく調和した白い壁を、しばらく飽きないで眺めていた。 「まるで、南フランスのニースか、カンヌやリヴィエラそっくりではないか。この風景を見ると、ニースやカンヌやリヴィエラのことが、しみじみ思い出されるなあ。わしは、外国へは一度もいったことがないが、ニースやカンヌやリヴィエラの絵はがきの風景とそっくりではないか。しかし、日本の政府も、なかなか味なことをやるものだ。こんな素晴しい刑務所は、どこを探してもあるまいて」  フン先生は、刑務所の正面玄関の方へ、歩いて行った。前庭にはよく手入れされた松がほどよい間隔で、緑と枝ぶりのよさを誇りあっている。毛足が五センチはあろうと思われるフカフカのじゅうたんを踏んでいるような感覚——それもそのはず、前庭は、一面の芝生。 「なーに、すばらしいのは建物だけじゃろうて。刑務所というからには、顔つきの悪さではタクシーの運転手と、甲乙つけがたいおっかない面構えの看守が、腰にピストル、手に棍棒、来るやつ、出るやつを、疑いのマナコでにらんでるに相違ない」  だが、フン先生の予想は、見事に外れた。物すごい美人——とはいえないが、そのへんのテレビ局の廊下をうろちょろしているタレント志願の女の子たちより、数倍美しく、その千倍は感じのよさそうな女の子が、フン先生に、しとやかに、かつ、上品にあたまを下げていった。 「いらっしゃいませ」  なんだか、一流デパートへはいったような気分である。 「本日は、当刑務所へお越しくださいまして、ありがとうございます。見学の方は一階の受付へおいでくださいませ。入所なさりたい方は、いったん、おもどりになった上、殺人未遂、強盗、スリ、かっぱらい、詐欺、横領など、しかるべき犯罪をお犯しになった上、警察官つきそいでお越しくださいませ」  たしかに受付の女の子のいうとおりだった。ここはホテルではないのだから、「泊めてください」「はい、どうぞ」というわけにはいくまい。 「ブンにあいたいのだが?」 「ブンさんでございますか? どちらさまでございましょうか?」 「小説家のフンだが」 「しばらくお待ちくださいませ」  案内係らしい女の子は、ピンク色のミニスカートからすんなりと下へ伸びた二本の脚を交互に動かして、前方へ移動し、「苦情うけたまわり係」という名札の出た部屋の隣の部屋へはいっていった。 「ピンクのミニスカートに、白の麻のブラウスか。なんと感じのいいいでたちではないか」  フン先生は、ほとほと感心し、驚きながら、ロビーのソファに腰を下ろし、また驚いた。身体の半分ちかくが、ソファの中にもぐってしまったからだ。ソファの底が抜けているのかと思って、よく見ると、なんと、ソファが上等すぎ、ふわふわしすぎているのであった。  そこへ、蝶ネクタイをし、白いコック帽をかぶり、白いシャツに、白い上衣、白いズボンに黒い長靴——というスタイルのコックが、ワゴンを押してやってきて、丁重にきいた。 「ホットケーキは、かために焼きましょうか、それとも、やわらかいのがお好みでございましょうか」 「冗談ではない!」  フン先生は、面喰って怒鳴った。 「わしは、ここに収容されているブンという囚人に、面会にきたのだ。ホットケーキをくいにきたのではない!」 「わかっております」  コックはホットケーキを焼きはじめた。あたりに、卵とバターの香しい匂いがたちこめる。 「当刑務所は、サービスをモットーとしております。面会においでになった方々を、ただ、ホットケーというのでは申しわけございません。そこで、ホットケーキをさしあげることになっておりますので」  ホットケーキがフン先生の前に出された。 「ホットケーないから、ホットケーキをたべさせてくれるというのか。ここの責任者はよほど駄洒落がすきらしいな」  フン先生はホットケーキを一口、たべた。 「うまい! じつにおいしい」 「おほめにあずかり、恐縮でございます」  そのとき、事務室から人が出てきた。 「やあ、フン先生、しばらくですなあ!」  見ると、それは余人ではない。クサキサンスケ警察長官である。 「いや、じつは、わしは、この刑務所の所長を仰せつかりましてな。もちろん、警察長官の任を解かれたわけではありません。兼任です。さ、ブンの部屋へご案内しよう」  エレベーターで四階に上がった。床には病院のように、白いリノリュームが張ってある。天井裏にかくしたスピーカーからは、低いヴォリュームで、ソフトな音楽が流れていた。長い廊下を歩きながら、ふたりは、むかしからの仲のよい友だちのように話す。 「長官、なんとすばらしい刑務所ではないか」 「わしもそう思う」 「全国の囚人たちが、この湘南刑務所へはいりたいといいだして、困りはしないのか」 「そんなこというはずもない」 「してまた、それはなぜであるか?」 「全国にこれと同じような刑務所が百か所以上できている。たとえば、北海道は大雪山のふもとに層雲峡刑務所。十和田湖畔に十和田刑務所。陸中海岸の浄土ヶ浜にプリズン・パシフィック。蔵王温泉に刑務所樹氷。日光の湯元温泉に温泉刑務所。東京の霞ヶ関ビルにも刑務所がある」 「ほう、あの三十九階ビルにか?」 「左様。三十階から上を国で買いとって作ったのだ。刑務所名はプリズン・スカイラウンジ。まあ、日本全国の保養地や観光地には、すべて、ここと同じような刑務所があると思っていただいてよろしい」 「なぜ、こんな豪勢な、ホテル顔負けの刑務所を、やたらに作ったのだね?」  ここで警察長官は、恨みのこもった、ひどく陰惨な表情になった。 「十二万人のブンを、できるだけ長生きさせるためさ」 「ほう! あれほど、ブンを嫌い抜いていた長官が、ブンの長生きをねがっているとは世にも面妖なはなしだ」  警察長官は、フン先生の方を怒りをこめてふりかえった。 「憎いからこそ、長生きしてもらわねばならぬのだ。ブンはわれわれを散々に、苦しめおった。その分、刑務所で、ブンに苦しんでもらわにゃいかん。できるだけ長くな! でき得るならば、三百十七年間、たっぷりと、刑務所で苦しんでもらわにゃいかんのだ」 「なるほど。それで、すこしでも健康によいようにと、こんなすてきな場所に、かくもすばらしい刑務所をたてたというわけか」 「そのとおり。ブンには医者が十人、看護婦がつきっきりだ。病気なんぞで早死にされたら、復讐にもなににもならぬからな。そのほか、一流ホテルのコックを常雇いにして、つまり厚生省で正式採用したのだから、いまじゃ、厚生技官というわけだが、おいしくて、栄養のある食事をくわしてやっとる。もちろん、ちゃーんと運動もさせとる」  長官は一気にまくしたてる。よほどブンに対する恨みが深いのだろう。 「もちろん、ここには冷暖房、換気装置、あらゆる設備が完備しておって、もう快適この上なしだ。たとえば、個室にひとりぼっちでいると、とかく、気が晴れないものだ。気が晴れぬと病気になりやすい。そこで、各部屋は気晴し用の『自動蚤虱発生装置』がついておる」 「蚤虱発生装置だと?」 「いかにもそうだ。ノミやシラミ退治も、格好なウサバラシになる。そのほか日本で出版されるすべての本を備えてあるし、地下にある劇場には、新しい映画が次々にかかる。芝居だって、一流劇団をよぶ。今週は、文学座。来週は前半が俳優座で、後半が民芸だ。来々週はちょいと趣きをかえて、テアトル・エコーという劇団をよんである。『日本人のへそ』とかいうおもしろい芝居をやってくれるらしい。おわかりかな、フン先生。ブンにはできるだけ刑務所のなかで長生きしてもらう、これがわれわれの復讐なのだ」  そのとき、フン先生の耳に、なつかしい声がきこえてきた。 「フン先生! フン先生じゃありません?」  押せば倒れそうな、細い、しゃれたデザインの鉄格子の間から見える、地味な和服の束ね髪……。 「おお! ブン!」  フン先生とブンは、鉄格子越しにしっかりと手をにぎりあった。 「元気そうだな、ブン!」 「おかげさまで」  ブンの目から、涙がひとつぶ流れ落ちた。 「おあいしたかったんです、先生」 「わしもじゃ」  ふと、ブンは、そばに長官が、憎らしそうに自分をにらんでいるのに気がついた。 「あ、そうだわ。長官、看守のことではなしがあるんです。昨夜は、看守がコツコツ歩きまわる音が気になって、安眠できませんでしたの」 「ふん! そんなこと、わしのしったことか」  ブンは、ひどくしょげた顔をした。 「気になって気になって、死にたくなりました」  長官は愕然、死なれちゃ困る。元も子もなくなる。復讐は、いま始まったばかりではないか。 「死にたくなるだと」 「ええ。昨夜などは、首を吊って死のうかとおもいましたわ。一分間に二度はそう思いました」 「そりゃいかん! 看守長! ちょっとこーい」  はるか遠くで、打てばひびくような看守長の声。 「はーっ! なんでありますか!」  靴音高く、看守長がやってきた。 「ばかもーん!」  長官、思わず怒鳴りつけ、 「お前はまだ自衛隊時代のくせが抜けんのか。閲兵式をやっとるわけじゃないのに、なぜにそう靴音高く廊下を歩き廻るのだ」  長官は看守長の耳にささやいた。 「ブンに死なれては、万事休すだ。今夜よりこの刑務所……いや全国の刑務所内で、靴音をたてて歩いてはいかん! いや、待てよ、このフン先生が生きているかぎり、ブンは刑務所から逃げだせないのだから、看守もいらんぞ」 「じつは閣下! それについておねがいがあるのですが……」 「なんじゃ?」 「さっそく、看守長の職をくびにしていただいて、わたくしを、この刑務所に入れていただきたいのであります。もちろん囚人としてではありますが……」 「貴様、気でも狂ったのか?」 「はっ、いたって頭脳明晰であります。その明晰なオツムで考えましたところ、この刑務所にはいった方が、どう考えても快適でありますので、そう決心したのでありまーす」 「ばかもん!」  またまた長官怒鳴りつけ、 「罪もないものを牢屋に叩きこめると思うのか。明晰どころか、おまえのアタマは大いにいかれておるぞ!」 「では——」  と、看守長は長官に向かってリングの上のボクサーのように構えた。 「わたくしも、ブンのように盗むであります。手はじめに、閣下の地位を示す肩章を盗ませていただくでありまーす」  看守長は、ゴールに向かって突き刺さってくるボールにタックルする、サッカーのゴールキーパーのように、長官めがけてとびかかった。  びりびりびり!  警察長官の地位と権威を示す金モールの肩章が、無惨にももぎとられてしまっていた。看守長は、こんどは長官の帽子を狙った。 「こ、こらッ、なんだ、その怪しい目の色は! ふとどき者めが! こらやめろ! やめぬと、刑務所に叩きこむぞ!」 「おお! 刑務所に叩きこんでくださる?」  看守長の顔はうれしさで輝いた。 「ありがとうございます。しかし念には念を入れよで、やはり、その帽子はいただきます!」  フン先生とブンは、長官を必死の勢いで追いかける看守長を見て、ほほえんだ。 「なるほど。刑務所で職員として働くより、囚人として、いっそはいってしまった方が、豊かにたのしくくらせると考えたあの看守長は、たしかに頭脳明晰だ」 「あの看守長ばかりではありませんわ、先生。わたしやわたしの仲間たちが、豪華で快適な刑務所で暮らしていると知った人たちは、みんな刑務所にはいろうとするはずよ。刑務所にはいるために、わたしたちにならって盗みを働いてね」  そのとおりだった。ブンの部屋にあったテレビが、突然、特別緊急実況中継をはじめたのだが、画面に次々にうつりだしたのは、東京で、仙台で、大阪で、京都で、いや日本全国いたるところで、もうひとついえば全世界で、ブンにならって手当り次第にモノを盗み、警察や交番に自首して行く人びとの姿だった。アナウンサーの声は、昂奮で上ずっている。 「みなさん! ごらんください。この人の波を 新宿駅でも、銀座でも、渋谷でも、人びとは、ひとりのこらず、盗みをはじめています。おききください! これらの過激な人たちの大合唱を!」  みんなが、歌っていた。 盗みましょうよ 盗みましょうよ 手当りしだい 取り放題 みんなで仲よく 盗みましょうよ ブンにならって 盗みましょう!  ある老婆は、差し出されるマイクに向かって、目に涙を浮かべながら、こう語っていた。 「ほんとうにうれしいことじゃ。なにか盗めば、刑務所にはいれるのじゃものね。刑務所にはいればこっちのもの。余生は安泰。そうじゃねェ、なにを盗もうかねえ。うん、アナウンサーのにいさん、このマイク盗みますわ。ハイ、よこしなさい」  人びとの歌声はますます大きくなり、天と地にひびきわたった。 はいりましょうよ はいりましょうよ 刑務所よいとこ 天国だよ みんなで仲よく はいりましょうよ ブンにならって はいりましょう!  フン先生は何度もうなずいた。 「つらい浮世で苦労をするより、ブンにあやかって、ホテルより暮しのいい刑務所にはいろうというわけか」 「そうなんです。先生。じつは、それこそ、わたしたちの狙いだったんです。それは、先生の狙いでもあったんじゃないかしら?」 「かも知れぬ。ようし、それじゃわしも刑務所にはいるとするか」 「まあ、すてき!」  そこへ、長官がころげこんできた。看守長に、服や下着をはぎとられ、いまや、長官閣下、哀れや残るは金太郎の腹掛けにパンツだけ。 「フン先生ッ! たすけてくれ! 看守長が狂いおった」 「たすけてあげたいのは山々だが……」  フン先生は、金太郎の腹掛けをいやーな目つきでじーっと見ていった。 「こんどは、わしが、その金太郎の腹掛けを盗むぞ。ついでにそのパンツもな」 「なにをするッ! フン先生! 常識をわきまえなさい! あ……あッ! きみィ、パンツをとるなんてひどいじゃないか」  長官はさっと、アタマの毛をひっぱった。あたまの毛が団体で、ぞろっと抜けた。なんと、長官のあたまはカツラであったのだ。 「フンを逮捕しろ! フンを逮捕しろ!」  長官はカツラで、身体の前をかくすと、あわてにあわてて階段をかけおりていった。  テレビの画面の人の波は、さっきよりもぐんとふえていた。アナウンサーが絶叫した! 『いまや、一億総泥棒であります!』  歌声にかきけされて、アナウンサーの声はきこえなくなってしまった。 盗みましょうよ 盗みましょうよ 権威 常識 金銀 ダイヤ みんなで仲よく 盗みましょうよ ブンにならって 盗みましょう! いやなやつから いやなところを わるいやつから わるいところを 気高い方から その気高さを 上品な方から そのお上品さを お金持から その金を 地主の旦那の その土地を 企業主から その工場を 軍隊からは その武器を 貧しい人から その貧しさを 悲しむ人から その悲しみを 重病人から その病いを ホラ吹きからは そのホラを でべその人から そのへそを 学者先生の その学問を すべての権威から その権威を そしたらみんな ただの人間になるはずだ ただの すばらしい人間に さァ! みんなで仲よく 盗みましょうよ ブンにならって 盗みましょう! あとがき  この、児童読物とも、テレビの台本とも、ひっくり返したオモチャ箱ともつかぬ騒々しい作物を書いたのは、昭和四十四年の夏から秋にかけてで、あれからわずか三年しか経っていないが、なんだかずいぶん遠い昔のような気がしてならない。  あの頃されてはいず、佐藤首相の周辺には、引退の「い」の字の気配もなく、彼は団栗まなこを炯炯と光らせて、天下を睥睨していた。私たちの日々の生活を規する常識が果して永久不変のものなのかどうかを疑わせるような、米中会談も大文士たちの連続自殺も文明への疑惑も連合赤軍事件もニセ医事件もグアムの日本兵生残り事件も、むろんまだ起ってはいなかった。  文明は人間の未来を明るく彩どるものであり、車は便利なものであり、医師は病いの療治師であり、性は隠すべきものであり、米国と中国は永遠の仇敵同士であり、暴力は悪であり、民主議会制は善であり、男は男性的であり、女は女性的であり、円はドルの敵ではなく、人間がいかなる悪さや悪企みをしようと地球は大盤石である、などの常識が一般にはまだ信じられていた。  その頃の私が最も熱中していた考えは、じつはこれら不易の常識や道徳が、じつはなんとなく頼り甲斐のないものではないか、ということで、この考え方は、この小作中のいたるところに散見できるはずだし、この小作の成り立ちそのものが、この考え方に基いているようだ。この考え方は三年前でも別に新しかったわけではなく、さらに今では「常識は変り得る」ということすら常識になっているほどであって、本来なら新版を出すに当って、根本から検討し直し、書き改めるべきなのであろうが、ひとつの小さな感傷を大切にするために、三年前と同じでよいのではないかと、あえて居直ることにした。結末にも、いまとなってはある種の不満が残るが、これを書いていたときのことを思うと、これもこのままにしておくべきだと考える。なにしろ、そのころ、私はありとあらゆる常識や作法をひっくりかえそうと思っており、ほかにいくらでも、いかにも小説小説した終り方があったのだが、もっとも小説作法から外れていると思われるこの終り方を選んだのだった。  前に述べた「小さな感傷」とはなにかというと、じつはこれが私の活字の処女作なのである。それまで戯曲と放送台本しか書いたことがなく、そのためかどうか、この、生まれてはじめての活字の仕事にあたっては、いらざる張切り方をし、結末部分七十枚などは一晩で書きあげたほどだった。そのがむしゃら振りと下手糞さ加減が、今ではただやたらに懐しい。  あれから今日まで、全部で十七篇の、小説のようなものを書いたが、どれひとつ、馬鹿馬鹿しいということについては、この小説を抜くものがない。馬鹿馬鹿しいものを書きたい、またそれが自分に最も似つかわしいと思っている私にとって、この事実は情けなく、怕い。  右は朝日ソノラマの新装版(昭和四十七年九月刊)に付したあとがきである。この新装版発行以来、わたしはさらに多くの小説を書いたが、やはり、どれひとつ馬鹿馬鹿しいということについては、この小説を抜くものが出ていないようだ。 (昭和四十九年二月) 給㈲